モーセはこのみおしえを書き記し

静まりの時 申命記31・9~13
日付:2023年05月09日(火)

9 モーセはこのみおしえを書き記し、主の契約の箱を運ぶレビ族の祭司たちと、イスラエルのすべての長老たちにこれを与えた。
10 モーセは彼らに命じた。「七年の終わりごとに、すなわち免除の年の定めの時、仮庵の祭りに、
11 イスラエル全体が、主が選ばれる場所に、あなたの神、主の前に出るためにやって来たとき、あなたはイスラエル全体の前で、彼らの耳にこのみおしえを読んで聞かせなければならない。
12 民を、男も女も子どもも集めなさい。あなたの町囲みの中にいる寄留者も。彼らがこれを聞いて学び、あなたがたの神、主を恐れ、このみおしえのすべてのことばを守り行うようにするためである。
13 これを知らない、彼らの子どもたちもこれを聞き、あなたがたがヨルダン川を渡って所有しようとしている地で、彼らが生きるかぎり、あなたがたの神、主を恐れることを学ばなければならない。」
(申命記31・9~13)

 「モーセはこのみおしえを書き記し」。「このみおしえを読んで聞かせなければならない」。みおしえ、すなわち神さまが語られた御言葉は、書かれるものとなり、読んで聞かせられるものとなりました。読み書き、が神の言葉を宣べ伝える基本となりました。
 宗教的なものを継承する、信仰を継承する、といったときに、多くは「祭り」や「行事」がその役割を果たすように思います。ユダヤの社会も例外ではありません。そこでは「書かれたもの」というよりも「ならわし」や長老的な存在による知識の継承が行われます。
 むかし自治会長をしたときに、夏の行事として地蔵盆が行われました。私が牧師であることを知っている地域の方の中には、お坊さんにご足労をいただくよりも牧師さんに何かお話をしてくださればどうだろうか、などという人もいましたが、そういうわけにもいかず、例年通りに行ったことを思い出します。もとより私はどうしていいかわからなかったのですが、地域の長老的な方が来られて、飾りつけや提灯の注文の仕方などやってくださいました。私はというと、結局集いのあとのゲームタイムというか出し物、つまりヨーヨー釣りとかそういうところで張り切らせていただくことになりましたが。地蔵盆マニュアル、みたいな何か書いてあるものがあればその本人の経験や資質に関わらず準備が可能だったのかもしれませんが、そうでもなかったので、村の長老さんは大切な存在だな、と思いました。
 そういうことに対して、聖書の世界では、書かれたもの、で信仰を伝えようとしたのです。それは個人の経験や資質に関わらず、伝えられなければならないもの、がちゃんと伝えられるためだったのだと思います。また伝えられるものが、その伝える者の何かに関わらず権威あるものとして伝えられるためだったのかもしれません。
 こんにちの教会も同じようなところがあるのではないか、と思います。礼拝では、聖書が読まれます。そしてその解説としての説教があります。もちろん単なる解説ではありませんが、そこで語られることは、書かれたものである聖書が語られることです。どんなに感動的なお話しや、霊的な体験が語られたとしても、聖書が語られていないならば、キリスト教の礼拝とはなり得ません。

「彼らが生きるかぎり、あなたがたの神、主を恐れることを学ばなければならない。」(13)

 聖書が読まれる、聖書を聞く、聖書を学ぶ、その目的は一つ「主を恐れること」です。共同訳では「主を畏れる」。
 この畏れるは、いたずらに恐怖することではなく、大切にすること、すなわち愛することです。礼拝において、あるいはさまざまな集いにおいて聖書が読まれる、聞かれる、学ばれるのは、神さまをおそれるためです。その目的が外されている集いは、これもキリスト教の集いとは言えないのだと思います。

 神さまを畏れる、大切にする、愛するということは一体どういうことなのか。
 なかなか難しいことだと思います。自分では神さまをおそれているつもりでも、そうなっていないこともあるかもしれません。人間にはつねに限界があります。
 神さまをほんとうにおそれ、また大切にされた方は、ただイエスさまお一人です。神さまをおそれようとするならば、イエスさまに学べばよいのだと思います。イエスさまに出会い、イエスさまに倣えばよいのだと思います。福音書を読むと、そこでイエスさまに出会えます。

 昨日は風が強くて、アイリスの花が心配でしたが、どうやら大丈夫のようです。午前にオープンガーデンの看板を立てに来てくださいました。
 今日は団体の牧羊会がオンラインで行われます。祈りと交わりと学びの一日です。

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