静まりの時 ヨハネ21・1~14
日付:2023年04月13日(木)
夜が明け始めていたころ、イエスは岸辺に立たれた。けれども弟子たちには、イエスであることが分からなかった。
イエスは彼らに言われた。
「子どもたちよ、食べる魚がありませんね。」
彼らは答えた。
「ありません。」
イエスは彼らに言われた。
「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れます。」
そこで、彼らは網を打った。すると、おびただしい数の魚のために、もはや彼らには網を引き上げることができなかった。それで、イエスが愛されたあの弟子が、ペテロに「主だ」と言った。シモン・ペテロは「主だ」と聞くと、裸に近かったので上着をまとい、湖に飛び込んだ。
(ヨハネ21・4~7)
復活の主との三度目の出会いの様子です。イエスさまは岸辺に立たれました。しかし弟子たちはそれがイエスさまだとは分かりません。いくつかの対話と、大漁の奇跡にあずかって初めてイエスさまだと気づきます。
この大漁の奇跡は、彼らが人間を取る漁師にしてあげようとのお声によって主の弟子に召されたときにあずかった奇跡と同じです(ルカ5章6節)。
この奇跡は、魚が一匹も取れない朝、主のお言葉に従ったときに奇跡が起こった、というものです。イエスさまはまことの神さまですから、何もないところから大量の魚を創造することのできるお方です。こののち弟子たちが岸辺に上がるとすでに魚が調理されていたのですから。しかしこのとき、ペテロたちが主のお言葉に従うということをお求めになられたのです。この奇跡によってたくさんの魚が手に入ったということも喜ばしいことですが、それ以上に、今まで分からなかったお方がイエスさまだったということが分かった、ということは大切なことではないでしょうか。
イエスさまを遠くではありましたが、彼らは見ていたのです。しかしそれがイエスさまだとは分かりませんでした。見ても分からないのです。彼らがイエスさまを分かったのは、御言葉に従って主の業にあずかった時でした。主が分かったので、そのお言葉に従って、奇跡にあずかった、というのではなく、そのお言葉に従って、奇跡にあずかったので、主が分かったと聖書は語るのです。この順番は大切です。
「祈ってごらんよ分かるから」という賛美歌がありますが、分かったら祈るというのではなく、祈ったら分かると歌っています。それと同じように、み言葉に聞き従うときに分かる、ということがあるのです。分かったらみ言葉に従う、とか、分かったら信仰生活を始めるといっていたらいつまでたっても信仰は生まれません。
まず礼拝です。礼拝に参加する。ともに賛美歌を歌う。祈りに、聖書の言葉に耳を傾ける、そうして分かるということが起こってくるのです。
今日は幾人かの方が本部の作業に出かけてくださいます。2月にも少し水漏れがあったので、毎週のように出かけて下さることで助かっています。また今日は三か月に一度となった診察の日で、病院に出かけます。今回は少しだけ検査があるようです。花粉症で鼻が詰まった状態で根を詰めていると、気づけば息苦しくなっているのですが、深呼吸で乗り切ることができるようになりました。