どのような死に方で神の栄光を現すかを示すために

静まりの時 ヨハネ21・15~19
日付:2023年04月14日(金)

17 イエスは三度目もペテロに、「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。ペテロは、イエスが三度目も「あなたはわたしを愛していますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ、あなたはすべてをご存じです。あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。
18 まことに、まことに、あなたに言います。あなたは若いときには、自分で帯をして、自分の望むところを歩きました。しかし年をとると、あなたは両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます。」
19 イエスは、ペテロがどのような死に方で神の栄光を現すかを示すために、こう言われたのである。こう話してから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」
(ヨハネ21・17~19)

 朝の食事が終わると、イエスさまはペテロに話しかけられました。「あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」
 イエスさまが十字架に向かわれる前に、ペテロはイエスさまに向かって言い張りました。たとえ、他の弟子たちが裏切っても私は裏切りません、と。今朝のイエスさまの言葉は、そのペテロの言葉をなぞらえるようです。以前のペテロであれば、はい、この人たち以上に私はあなたを愛しています、と胸を張って答えたことでしょう。しかしイエスさまが十字架に向かわれるとき、三度イエスさまを知らないと否認してしまったペテロは、もはやそのように答えることができませんでした。
 ペテロの答えはこうです。「私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」。以前のペテロは、自分が神さまを愛することを、自分自身が誰よりも知っている、と告白しました。しかし今ペテロは、自分が神さまを愛することは、神さまが知っていてくださる、と告白するのです。
 キャンパスクルセードの四つの法則に、信仰に生きる前の自分と、信仰に生きる自分のあり方が、円とその中に椅子が書かれた図で示されています。円は自分の心です。椅子は心の王座です。信仰に生きる前はその椅子に自分が座っていました。それで様々なものが混乱していました。しかし信仰をいただいてから、その王座にイエスさまが座ってくださいました。それで様々なものが平安のうちに導かれるようになりました。「私が愛する」ということも、もはや自分のコントロール下にあることではなく、イエスさまの御手の中にあることなのです。
 そのように告白するペテロにイエスさまは語られます。「わたしの羊を飼いなさい」。おおよそ牧会ということが成り立つためには、このようなペテロの告白が必要なのです。

 そんなペテロにイエスさまは「あなたは若いときには、自分で帯をして、自分の望むところを歩きました。しかし年をとると、あなたは両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます」と語られました。
 これは「ペテロがどのような死に方で神の栄光を現すかを示すために、こう言われたのである」と聖書は語ります。

 どのような死に方で神の栄光を現すのか。神さまの栄光を現すというのなら、どのような生き方で、というべきではないか、と思いますが、聖書は、死に方、と語ります。本当に神さまの栄光を現すとすれば、それは生き方ではなく死に方だ、というのです。
 さらにその死に方とは、「両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行く」と、なんとも情けない姿が語られています。立派な殉教の死というのではないのです。多くの人を助け励ました、というのでもないのです。一大事業を成し遂げた、というのでもありません。人の世話にならなければ生きられないような姿となって、自分の思い通りの人生ではなく、自分の思いや願いとは全く違う道に連れていかれるような、そんな人生、そしてそんな死に方。それによって、神の栄光を現すのだ、と言われたのです。

 私たちは自己実現が自分の人生を幸せにすると考えるのかもしれません。自分の思い通りに人生をコントロールできれば、そこに幸せな人生があると。
 もしかすると、信仰の道においても、同じように考えるのかもしれません。祈りが聞かれる、という言葉が、祈りが効かれる、祈りが利かれると勘違いしてしまい、結局自分の願望のままに世界をコントロールするのがキリスト教信仰のように誤解してしまうのです。
 しかし祈りは明け渡すことであり、神さまの御心を静かに聞くことです。イエスさまを主と仰ぐ信仰は、文字通りイエスさまに主となっていただくことなのです。それはたとえ世間からは情けない生き方だ、情けない死に方だ、とささやかれたとしても、そうして神さまの栄光を現す者としていただいた、ということなのです。

私の願いは、どんな場合にも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り、生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられることです。私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。(ピリピ1・20,21)