見ないで信じる人たちは幸いです

静まりの時 ヨハネ20・24~29
日付:2023年04月12日(水)

 十二弟子の一人で、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちは彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言った。
 八日後、弟子たちは再び家の中におり、トマスも彼らと一緒にいた。戸には鍵がかけられていたが、イエスがやって来て、彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。
 それから、トマスに言われた。
 「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
 トマスはイエスに答えた。「私の主、私の神よ。」
 イエスは彼に言われた。
 「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」
(ヨハネ20・24~29)

 戸を閉じて集まっていた弟子たちのところに、復活のイエスさまは来てくださいました。彼らは主の御傷を見て喜びました。その喜びの中にいなかったのが弟子のトマスです。
 それで喜びの中にある弟子たちはトマスに語りました。私たちは主を見たのだ、と喜びにあふれて語ったことでしょう。それを聞いたトマスはどんな気持ちだったでしょう。彼は「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言いました。
 喜びの渦の中に一人取り残されたトマスの気持ちが表れている言葉だと思います。
 自分だけが取り残されてしまったという残念な気持ち。主を見たといって喜んでいる他の弟子たちへの小さな嫉妬心。どうして自分も一緒にいなかったのだろうか、といった後悔。様々な気持ちが駆け巡っているのだと思います。
 かつてイエスさまの行く道を知らないと告白したトマスに、わたしが道だ、真理だ、いのちだ、と語ってくださったイエスさま。そのイエスさまは度々ご自身の復活について語ってくださいました。ですからトマスも他の弟子たちの言葉を信じて、イエスさまの復活を素直に信じればよかったのだと思います。しかしそれができなかったのです。イエスさまが遠くに行ってしまわれたような気もしていたのかもしれません。

 「私は・・・決して信じません」。この言葉は、確かに不信仰の言葉として私たちに響きます。しかしもう少し違った意味もくみ取ることができるのではないでしょうか。
 他の弟子たちが復活の主との出会いに大いに喜んでいるのです。まるで宴のように盛り上がっていたことでしょう。その場の空気を読むならば、その盛り上がりに水を差すようなこの言葉は、いかがなものでしょうか。私だったらもしかすると、本当は信じてはいないのですが、信じた、あるいは、そういうこともあるでしょう、などと言ってしまったかもしれません。
 しかしトマスは、どこまでも自分の心に正直です。そしてそれをしっかりと告白することができたのです。今私は信じてはいない。その告白が、のちに信仰を生み出すことになったのだと思います。自分の心が今どのような状態にあるのかを、しっかりと見つめ告白すること。周りの雰囲気に流されない。空気を読まないやつだ、と疎まれるかもしれません。しかし、自分を偽らないのです。

 そんなトマスを、他の弟子たちは放ってはおきません。「八日後」。一週間後、弟子たちは再び家の中にいます。今度はトマスも一緒です。戸には鍵がかけられ、一週間前の状況が再現されています。彼らはこの一週間というもの、ともに祈ってきたのでしょう。果たしてそこにイエスさまは来てくださいました。そして彼らの真ん中に立って、再び同じ言葉「平安があるように」と語ってくださいました。
 イエスさまはやさしく、さあトマスよ、あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。脇腹を触ってみなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい、と招いてくださいました。

 その言葉にトマスは告白します。「私の主、私の神よ」。イエスさまに対して明確に神と告白されている言葉がここに刻まれました。釘の跡を見、その跡に指を入れ、脇腹にも手を入れなければ決して信じない、といったトマスでしたが、もはやそのようなことをせずに、信仰の告白をしました。

「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」

 聖書の中に「幸い」と語られる言葉は、様々なところにちりばめられています。例えば、山上の説教の中の、幸いなるかな、心の貧しい人、などなど。このトマスとの対話の中にも幸いが語られています。それは、見ずに信じる人たちは幸い、です。山上の説教の翻訳になぞらえるとすると、幸いなるかな、見ずに信じる人たち、ということになります。

 見ずに信じる。それの反対は、見たら信じる、です。百聞は一見に如かず、という言葉がありますが、見るということは、百の言葉にまさる、ということでしょう。それで、見る、ということを前面に押し出した宣教の在り方もいろいろと試みられていると思います。ごちゃごちゃとした説教の言葉よりも、目の前で癒しの奇跡が行われるということには説得力があるでしょう。言葉だけが語られるよりも、パワーポイントや実物教育、視覚支援は大切なことでしょう。

 信じるということはどういうことであるのか、信じることの幸いとはいったいどういったことであるのか。知る、知識として理解する、ということだけであれば、見る、ということは大切なことでしょう。しかし、ここでイエスさまが語っておられるのは、知るということではなく、信じるということについてです。幸いは知るということにおいてではなく、信じる、ということ、あるいは信頼するということにおいて生まれることである、と。信じるということは、見ない、あるいは科学的に実証されない、ということが前提とされていることではないだろうか・・・。おおよそ信じるとか、信頼するとか、さらには愛するということは、実験を行うことによって客観的な事実として証明するといったようなことにはなじまない、ということではないかと思うのです。

 そうすると、このトマスは、自分の手で触れてみなければ、つまり自分が実験をして証明しなければ信じないといいはっていたのですが、いざイエスさまとお出会いしたときには、そういうことは一切せずに、私の主、私の神と告白しました。
 このイエスさまのお言葉、「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです」は、確かに一つの意味としては、あなたはわたしを見たことによって信じたのであろう、しかし見ないで信じる者こそ幸いなのだ、とやや叱責を込めた言葉と読めるのだと思います。
 しかし、あなたはわたしを見たから信じたのか。そうではないだろう。手を触れなければ信じないと言い張ったあなたが、手を触れずに信仰の告白をした。今あなたが信仰の告白をしたのは、いわゆる「見ない」で信じたことではないか。あなたも見ないで信じる幸いに生き始めたのはないか。もうかつてのあなたではない。胸を張って他の弟子たちとともに教会を建て上げていってほしい、と。そんなふうにイエスさまは語っていてくださるのではないか、と思いました。
 この言葉は、その後のキリスト者たち、そして今朝の私たちにも響いています。あなたも見ないで信じる幸いに生き始めたのだ、と語っていてくださるのだと思います。