イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。

静まりの時 ヨハネ20・19~23
日付:2023年04月11日(火)

 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。
 「平安があなたがたにあるように。」
 こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。
 イエスは再び彼らに言われた。
 「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
 こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。
「聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」
(ヨハネ20・19~23)

 「その日」。イエスさまが復活された日。今日では日曜日です。その日曜日の夕方に、イエスさまは弟子たちにお出会い下さいました。
 弟子たちは「ユダヤ人を恐れて」戸に鍵をかけて、隠れていたということでしょう。そこにイエスさまは来てくださいました。鍵のかけられた戸も、復活のイエスさまにとっては妨げではありません。
 イエスさまは「平安があるように」と語られます。平安があるように、平和があるように、と語ってくださいました。このときの弟子たちにとって最も必要な言葉は、この「平安があるように」であった、ということでしょう。イエスさまはこの言葉とともに、手と脇腹をお見せになりました。そこには釘と槍の跡があったことでしょう。弟子たちはその主を見て喜びました。

 このお言葉に続いて「父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします」と語られました。主は、恐怖する弟子たちに平安をお与えくださり、そして遣わされます。復活の主から語られた平安のお言葉は、派遣されることによって完成します。
 父なる神さまが御子イエスさまを遣わされたように、私たちを遣わす、と言われました。イエスさまがどのように遣わされたのか。降誕、受洗、荒野、そして弟子たちとの宣教、十字架、葬り、復活・・・。そのように私たちも遣わされるということでしょうか。
 イエスさまは、その公生涯において常に父なる神さまの愛をお受けなさいました。私たちも、神さまの愛に満たされて遣わされていきます。

 イエスさまは、さらに弟子たちに息を吹きかけて下さいました。「息」は、風であり霊です。遣わされる者はイエスさまの霊に満たされて遣わされます。彼らに託された宣教の言葉は、「聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります」。聖霊を受けること。そしてそれは、赦しに生きることである、と、赦しの言葉を託されます。教会はこの世界にあって唯一、神さまからの赦しの言葉を託されています。

 主は、ユダヤ人を恐れて戸を閉じていた弟子たちに、赦しの言葉、を託されたのです。それはこの赦しの言葉が、誰よりも弟子たちのためであったのだと思います。
 赦さないぞ! という心は、自分自身を縛るものです。主にある者は、そのような心から解放されたのです。赦すということは、自由に生きるということです。どんなに深い罪の中にあろうとも、神さまの赦しがある、と教会は語り続けます。

 弟子たちは、主が自分たちを赦してくださっているという主の愛に出会いました。私たちも赦しの言葉を語り続けるために、そしてその言葉が真実の赦しの言葉であるために、私たちも主から語られる平安の言葉を聞き、その言葉によって、自らが赦された者であることを信じ平安に満たされることが必要です。
 自らが罪赦された喜びと平安に満たされるために、どうしても必要なことは、自らが赦され難い罪人であることを知らなければなりません。その事実を神さまの前に認めなければ、赦しの喜びに満たされることはありません。

「私は自分の罪をあなたに知らせ
 自分の咎を隠しませんでした。
 私は言いました。
 『私の背きを主に告白しよう」と。
 するとあなたは私の罪のとがめを
 赦してくださいました。」(詩篇32・5)

「罪 汚れは いや増すとも 主の恵みもまた いや増すなり」(新聖歌376)

 先日の日曜日の礼拝ライブ配信を振り返ってみると、プロジェクターの映像が切り替わっていないことに気づきました。これはキャプチャーの方法が間違っていたからのようです。画像キャプチャーにしなければならないのに、ウィンドウキャプチャーになってしまっていたからだと。これで次回はうまくいくような気がしています。三度目のチャレンジです。