静まりの時 ヨハネ20・11~18
日付:2023年04月10日(月)
彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。そして、イエスが立っておられるのを見たが、それがイエスであることが分からなかった。
イエスは彼女に言われた。
「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」
彼女は、彼が園の管理人だと思って言った。
「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。私が引き取ります。」
イエスは彼女に言われた。
「マリア。」
彼女は振り向いて、ヘブル語で「ラボニ」、すなわち「先生」とイエスに言った。
(ヨハネ20・14~16)
復活の朝、マリアとイエスさまとの出会いの場面です。
マリアは空っぽの墓を覗き込みながら絶望しています。光り輝く天使たちがやさしくマリアに語りかけました。それにマリアが答えるとともに彼女は気配を感じたからでしょうか、なぜか「うしろを振り向き」ます。彼女はそこにイエスさまが立っておられるのを「見る」のですが、しかしそれがイエスさまであるということが分かりません。イエスさまはそんなマリアに語り掛けて下さいました。イエスさまとの対話が始まりました。
対話の果てにイエスさまが彼女に語り掛けられた言葉はシンプルです。「マリア」。ただ名前を呼んでくださったのです。しかしマリアにとってはそれで十分でした。百の議論よりも、自らの名を呼んでくださった、ということが彼女の心を開き、今まさに対話をしているお方がイエスさまであることを知ります。
聖書はその時のマリアの様子を次のように語ります。「彼女は振り向いて・・・」。
ここでマリアの体の向きを整理してみたいと思います。最初マリアは墓を覗き込んでいました。するとマリアの後ろにイエスさまがお立ちになられました。彼女は「振り向いて」イエスさまとの対話を始めます。ですからこの時はイエスさまのほうを向いています。墓には背を向けています。イエスさまとの対話の中でそれがイエスさまだと分かると、マリアは再び「振り向いて」イエスさまに語り掛けたのです。最初墓に向かっていたマリアが、合計2度振り向いていますので、結果墓のほうを向いていることになります。おかしなことですね。イエスさまに背を向けて呼びかけているように読めてしまうのではないでしょうか。これも天国に行ったらヨハネさんに聞いてみなければならないところです。
私は、ヨハネは、そんなことは全く気にしていないのではないかと思います。ここで聖書が語るのは、マリアの体の向きではなく、心の向きを語っているのだと思うからです。聖書は論理的に読まなければなりませんが、それは冷たい心で表面的、機械的に読むことではありません。イエスさまへのこよなき愛に満たされつつ、イエスさまを拝して読んでいかなければ、聖書の心を読むことは難しいのではないかと思います。
復活のイエスさまをお出会いするためには、私たちも心の向きを変えなければなりません。神さまは常にともにいてくださいます。しかし神さま見えるかどうか、は、私の心のありように深く結びついているのです。心を変えて振り向くならば、そこにイエスさまはいてくださいます。
昨日の主の日は、主の復活を覚えるイースター礼拝でした。礼拝後は女性会によって準備されたイースターエッグのプレゼントもありました。礼拝出席者が予想より多く、準備された卵が少し足りなかったようですが、愛を働かせながら互いに主の復活を喜びました。足りないということも愛を働かせるチャンスになるというのが教会なのですね。教会学校では、イースターエッグハント、というのでしょうか。卵探しと工作の時間がありました。礼拝後は、次週の召天者記念礼拝のための準備がありました。