静まりの時 ヨハネ19・16b~30
日付:2023年04月07日(金)
イエスは自分で十字架を負って、「どくろの場所」と呼ばれるところに出て行かれた。そこは、ヘブル語ではゴルゴタと呼ばれている。
(ヨハネ19・17)
「自分で十字架を負って」。イエスさまはご自身の意思(意志)で十字架を負われ、その十字架につかれました。囚人ですから、裁判官の命令に従った兵士によって負わされた。あるいは妬みにかられるユダヤ人たちの意思で十字架に着かれた、と言えるところですが、聖書は、イエスさまがご自分で十字架を負われた、十字架で死なれた、と語ります。
それは私たちのためでした。罪と滅びの中にしか生きることのできない私たちを救うために、ご自分で十字架についてくださったのです。ここに神さまの愛が明らかにされました。命を捨てるほどの愛をもって私たちを愛していてくださる。それが神さまなのです。また私たちの罪が、神さまが命を捨てなければ贖いきることのできない重いものだったのです。
聖書はイエスさまが十字架につかれた場所を明確に記しています。それは「どくろの場所」であった。そしてヘブル語ではゴルゴタと呼ばれているところであったと、丁寧に記しています。
ゴルゴタは、ラテン語で「Calvariae」。カルバリーの語源です。イエスさまが十字架につかれた場所は、こののち世界の歴史に刻まれました。
イエスさまが十字架につけられるとき、兵士たちはイエスさまの衣類をはぎ、それぞれで分け合います。布地が貴重だったのかもしれません。「衣」は四つに裂きました。しかし「下着」は一枚織だったので裂きませんでした。それでくじを引いたといいます。聖書はこれは、旧約聖書、詩篇22編の成就である、と説明しています。
死刑を執行するものが、囚人からなにがしかを自分の懐に入れる。兵士たちは欲に駆られてそのようにしたのだと思います。しかしそれも聖書の語るところであったと聖書が語るのです。人間はそれと知らずに聖書の言葉を成就している。大胆に言うならば、人間は罪の中にある時も、それも神さまの御手の中に置かれている、というのではないでしょうか。
それは決して罪を犯してもよい、ということではなく、罪の中にある者も、神さまの救いの御手が伸ばされている、ということではないかと思います。そのことに気づいて悔い改め、神さまのもとに帰ってくるかどうか。やはりそれは人間にゆだねられているのだと思います。
「イエスは酸いぶどう酒を受けると、『完了した』と言われた。そして、頭を垂れて霊をお渡しになった。」(30)。
十字架の御業は完了しました。私たちの救いの道は開かれたのです。もちろんなお復活、昇天、そしてやがての再臨が大切な救いの道です。しかしここに救いの御業は完了したのです。人間の業は何一つ加えることはありません。十字架の主を見上げて、自らを悔い改め、イエスさまを主として歩む救いの道を歩みたいと思います。
今日は受難日(受苦日)です。こころを静めて一日を過ごしたいと思います。
1 カルワリオの園のうえ
釘打たれし 救いぬし
いたましや2 鞭打たるるみ苦しみ
我らが身の罪ふかく
むねいたむ3 罪とが負い十字架に
苦しまししみ心よ
わすれじな(カトリック聖歌集、174)