静まりの時 ヨハネ19・1~16a
日付:2023年04月06日(木)
ピラトは、これらのことばを聞いて、イエスを外に連れ出し、敷石、ヘブル語でガバタと呼ばれる場所で、裁判の席に着いた。
(ヨハネ19・13)
「この人を釈放するのなら、あなたはカエサルの友ではありません」と叫ぶユダヤ人のことばに、ピラトはとうとうイエスさまを十字架につけることを決心します。それまで何とかしてイエスさまを釈放しようとしましたが、ユダヤ人の圧倒的な憎しみを前にピラトは恐怖し、不当な判決をしたのです。「私にはあなたを釈放する権威があり、十字架につける権威もあることを、知らないのか」とはいうのですが、神さまを知らない者は、自らの力で保身に走らなければならず、それは結局人の顔色をうかがう、という生き方を生み出すということでしょうか。ピラトは、「敷石、ヘブル語でガバタと呼ばれる場所で、裁判の席」に着きました。
共同訳2018でこの節を読んでみましょう。
「ピラトは、これらの言葉を聞くと、イエスを外に連れ出し、ヘブライ語でガバタ、すなわち「敷石」という場所で、裁判の席に着かせた。」(13、共同訳2018)
裁判の席に着いたのはいったい誰なのでしょう。
新改訳では、ピラトが「席に着いた」と訳されていますので、当然ですが、裁判(官)の席に着いたのはピラトです。文脈としてもそのほうがしっくりきます。
しかし共同訳2018では、「裁判の席に着かせた」と訳されていますので、ピラトがイエスさまを裁判の席に着かせた、という意味でしょう。裁判(官)の席に着いたのは、イエスさまであった、ということになります。新共同訳でもこのように訳しています。
これは、原文のギリシャ語が、他動詞として「座らせる、据える、置く」とも、自動詞として「座る、席に着く」とも訳せる言葉だからです。ややこしいことになるので、ヨハネさんもその辺をしっかりと分かるように書いておいてくださればよかったのですが、どちらともとれるようなことばを使ってしまったのですね。
もちろん、裁判「官」の席と考えず、裁判所の被告の席に着かせた、と読むことも可能だと思います。しかし、長く議論の対象となっているそうです。
長く議論の対象となるような書き方をうっかりしてしまったのか。
わざわざ使ったのではないか、と考えてもよいのではないか、と思います。つまり、ここで裁判官はピラト、被告はイエスさまです。しかしどこか裁かれているのはピラトのほうで、裁いておられるのはイエスさまのほうではないか、と思えてくるのです。
人間が神さまを裁く。それは人間のほうが、裁かれている、ということである、とヨハネは語っているのではないか、と思えてくるのです。
人間関係の中でも、誰かを裁くということは、自分の立場や考えを表明するということですから、自分という人間を判断する材料を表明していることになります。判断される、すなわち裁かれるということが起こるのです。イエスさまは、裁いてはならない、裁かれないためである、と言われました(マタイ7・1)。私たちは、裁かざるを得ない、というところに立つこともあるでしょう。そのとき自分自身が裁かれてもいる、ということを忘れないようにしたいと思います。
「ピラトは、イエスを十字架につけるため彼らに引き渡した。」(ヨハネ19・16)
この「彼ら」も微妙です。実際には兵士たちに引き渡したはずです。しかしまるで訴えているユダヤ人たちに引き渡した、とも読めるところではないかと思います。
おそらく「引き渡した」ということば自体がここでは重要なことなのかもしれません。
「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、『これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。」(第一コリント11・23~24)
イエスさまは、引き渡されてくださったのです。私たちの救いを実現するために。今日も、この主イエスさまがともにいてくださいます。