静まりの時 ヨハネ18・28~38
日付:2023年04月05日(水)
ピラトはイエスに言った。「真理とは何なのか。」
(ヨハネ18・38)
「真理とは何なのか」。ピラトはイエスさまに向かって問いました。ここに求道する者の問いがあります。真理というものが存在するのだろうか。もし存在するとすればどこに存在するのか。それはどのようなものなのだろうか。当時世界を支配したローマから遣わされた総督が、逮捕され連行された一人の囚人に問いかけているのです。
そのような問いをピラトに生み出したのは、イエスさまとの対話によるものでした。イエスさまがピラトに語られる言葉は、すべてピラト一人をこの問いへと導くためであったと言えるのかもしれません。
〔ピラト〕「あなたはユダヤ人の王なのか。」
〔イエスさま〕「あなたは、そのことを自分で言っているのですか。それともわたしのことを、ほかの人々があなたに話したのですか。」
〔ピラト〕「私はユダヤ人なのか。あなたの同胞と祭司長たちが、あなたを私に引き渡したのだ。あなたは何をしたのか。」
〔イエスさま〕「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように戦ったでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。」
〔ピラト〕「それでは、あなたは王なのか。」
〔イエスさま〕「わたしが王であることは、あなたの言うとおりです。わたしは、真理について証しするために生まれ、そのために世に来ました。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」
この時、イエスさまを連行してきたユダヤ人たちは「過越の食事が食べられるようにするため、汚れを避けようとして、官邸の中には入らなかった」と言います。また彼らはピラトから「おまえたちがこの人を引き取り、自分たちの律法にしたがってさばくがよい。」と言われると、「私たちはだれも死刑にすることが許されていません」と語っています。
彼らはイエスさまを殺そうとしているのです。その最大の罪を犯そうとしている彼らが、ここで宗教的戒律や政治的正義を守ることに固執していることを、私たちはどのように考えるでしょうか。人間は宗教的正しさ、政治的正しさのなかで、神を殺してしまうということでしょうか。かつてナチスによって多くの人々をガス室に送られました。そのような非情な行為をした人々は、ただその日の職務を正しく執行しようとした普通の人たちだったと言われます。
ピラトは、ユダヤ人たちが異邦人の官邸に入らないので、イエスさまのおられる官邸内と外とを出たり入ったりしなければなりませんでした。ここで唯一死刑の権利を手にしているピラト。その圧倒的な権力を手にしている一人の人間が、まるで御用聞きのように出たり入ったりしている姿は、真理を知らない者の悲哀をあらわしているようです。
「真理とは何ですか」。「真理とは何か」(共同訳2018)。
私たちは、この問いをいただいているでしょうか。イエスさまこそ真理そのものです。
「・・・『神は最高の真理であるから、謙遜は真理のうちに歩むことである』と。私たちは何もよいものを持たず、あわれさと無に過ぎないことは本当に大きな真理です。これが分からない人は偽りのうちに歩みます。」
(アビラのテレジア、『霊魂の城』、「第六、10章7節」、聖母の騎士社、1992年、351頁)