その人たちなら、わたしが話したことを知っています

静まりの時 ヨハネ18・19~24
日付:2023年04月04日(火)

 大祭司はイエスに、弟子たちのことや教えについて尋問した。
 イエスは彼に答えられた。
「わたしは世に対して公然と話しました。いつでも、ユダヤ人がみな集まる会堂や宮で教えました。何も隠れて話してはいません。なぜ、わたしに尋ねるのですか。わたしが人々に何を話したかは、それを聞いた人たちに尋ねなさい。その人たちなら、わたしが話したことを知っています。」
 イエスがこう言われたとき、そばに立っていた下役の一人が、「大祭司にそのような答え方をするのか」と言って、平手でイエスを打った。
 イエスは彼に答えられた。
「わたしの言ったことが悪いのなら、悪いという証拠を示しなさい。正しいのなら、なぜ、わたしを打つのですか。」
 アンナスは、イエスを縛ったまま大祭司カヤパのところに送った。
(ヨハネ18・19~24)

 「大祭司」。ここを読むと、いったい大祭司とは誰のことなのか不思議な気持ちになります。最初に出てくる「大祭司」は、結局アンナスのことですね。その大祭司アンナスが、大祭司カヤパのところにイエスさまを縛ったまま送ったと24節に書かれていることになります。大祭司って何人もいるものなのでしょうか。
 一説によると、大祭司であったアンナスは、退位後もその権力を手放すことをせず、カヤパが大祭司に就任してもなお権力を行使していた、ということでした。それが正しいとすれば、ここで起っていることは、宗教界の混乱です。神さまのご支配がどこかに追いやられ、人間の罪が支配していた、ということでしょうか。

 アンナスとイエスさまとの対話のなかに、急に「そばに立っていた下役の一人」が、イエスさまを平手で打ちました。対話の中に暴力が入り込んできました。言葉は大切なものです。人間の罪はその言葉を暴力で打ち破ってしまいます。

「なぜ、わたしに尋ねるのですか。わたしが人々に何を話したかは、それを聞いた人たちに尋ねなさい。その人たちなら、わたしが話したことを知っています。」(21)

 神さまに問いたい、という気持ちは理解できます。しかし神さまは常に語っていてくださる。あるいはすでに語ってくださった。私たちは、その言葉を聞いた人びとに尋ねなければならない。神さまの言葉を聞いて知っている人たちの言葉に耳を傾けなければならないのです。
 教会が、礼拝において聖書に聞くのは「聞いた人たちに尋ねること」です。そこで神さまは豊かに語ってくださるのです。