静まりの時 第2コリント5・11~15
日付:2023年03月20日(月)
というのは、キリストの愛が私たちを捕らえているからです。私たちはこう考えました。一人の人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである、と。
キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。
(2コリント5・14.15)
「キリストの愛が私たちを捕えている」。欄外をみると「駆り立てている」。共同訳2018では「キリストの愛が私たちを捕えて離さない」。
以下は、竹森満佐一説教集からです。
「キリストの愛が、強く迫った、と申します。強く迫る、という字は、板ばさみにする、という字であります。両方からはさみつけるように、キリストの愛が迫ってくるのです。そのために、パウロたちは、もう何もすることもできません。ただ、押し出されるだけであった、というのであります。キリストの愛について、信仰者は、しばしば、口にいたします。しかし、その強さを、どの程度に知っているのでしょう。パウロは、それを、こういう言い方で説明しようとしています。彼の強烈な働きは、とても人間業とは思えません。それは、神の業であり、キリストの力でありました。しかし、それは、愛でありました。彼が、キリストに愛されて、まるで金しばりにあったように、動きがとれなくなり、そのために、その愛に押し出されるままに、働いて行った、ということなのでありましょう。」
(竹森佐満佐一、『講解説教・コリント人への第二の手紙』、新教出版社、1985年、211頁)
キリスト者の生きる力は、神さまからやってくるものですが、それは神さまがどんなに愛していてくださるのか、という神さまの愛の力です。「もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きる」というのも、神さまの愛に押し出されて生まれてくる生き方です。
ですから力強く生きるためにどうしても必要なことは、神さまの愛がどんなに大きなものであるのかを、学ぶこと、知ること、実感することが必要となって来るのだと思います。
昨日は主日礼拝の日でしたが、月に一度の分級交わりの日でした。礼拝後各会に分かれての交わりの時です。男性会では久しぶりに食卓を囲んでの時をもちました。黙食でしたが、その後の証し会では、楽しい交流の時となりました。感謝します。