大胆に恵みの御座に近づこう

静まりの時 ヘブル4・14~16
日付:2023年03月15日(水)

14 さて、私たちには、もろもろの天を通られた、神の子イエスという偉大な大祭司がおられるのですから、信仰の告白を堅く保とうではありませんか。
15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。
16 ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。
(ヘブル4・14~16)

 大祭司という存在がどのようなものであったのか。ユダヤの人びとにとってどのような存在であったのか。自分たちを支配した宗教的な権力者、という印象もあったかもしれませんが、多くの人にとっては、日々の生活の安寧を祈っていて下さる大切な存在だったのではないかと想像します。
 初代のキリスト者たちは、神の子イエスさまこそまことの大祭司である、との信仰を告白し始めたということだと思いますが、これは当時のユダヤの人びとにとっては大変な「暴言」だったように思います。そのような暴言と受け取られることを十分に理解しつつ、しかしヘブル人への手紙は大胆にイエスさまこと大祭司なのだと語ります。
 この大祭司イエスさまが私たちキリスト者にはおられる。だから信仰の告白を堅く保とう、私たちは、まことの大祭司イエスさまに支えられているのだ、と。
 大祭司イエスさまは、私たちの弱さに同情できない方ではない。私たちの弱さを知り尽くしていてくださる。なぜなら、私たちと同じように試練に遭って下さった、あの十字架の試練を潜り抜けてくださったのだ、だから私たちは「あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこう」。あわれみを受けること、恵みをいただくこと、折にかなった助けをうけること、そのために大胆に恵みの御座に近づこうではないか、と私たちは招かれています。
 あわれみや恵みを受けるために神の御座に近づく、と読むことができるのですが、同時にあわれみと恵みによって「大胆に恵みの御座に近づこう」、そうして「折にかなっ助けを受け」よう、とも読めるように思えてくるのは私だけでしょうか。私たちが神の御座に大胆に近づくためには、神さまのあわれみや恵みによらなければならないのです。
 この「大胆に」という言葉は、自由に、とも訳される言葉です。自由に神さまのおひざ元に近づくことができる、そのようにしてくださった恵みの中に私たちは生かしていてくださるのです。