静まりの時 イザヤ5・1~7
日付:2023年03月07日(火)
わがぶどう畑になすべきことで、
何かわたしがしなかったことがあるか。
なぜ、ぶどうがなるのを心待ちにしていたのに、
酸いぶどうができたのか。
(イザヤ5・4)
神さまを信じるということ。その神さまが偶像の神、すなわち人間が造った神ではなく、人間を造った神、さらにはすべてのものを造った神、すなわち創造主を信じるということ。それは、創造主がおられる、存在されているということを信じることとともに、その創造主を信頼するということです。創造主の存在は信じたけれども、その創造主を信頼しない、ということであれば、それは聖書の語る「信じる」ということをしていることにはなりません。
信頼するには、信頼に値する存在かどうかを「知る」必要があります。しかしたとえば聖書を学ぶことによって「知る」ということができたとしても、その知るということをしている「私」という存在は確かな者であるのか、確かな判断力を持っているのか。そう問われると、すこし自信がなくなります。
おそらく、本当に神さまを知るということが起こるのは、この「自分の判断力は完全ではない」ということを受けれ、しかしその完全ではない私が、神さまを信頼しようとしている、ということの背後に、神さまの完全な愛の働きがあると、信頼することによるのだと思います。そうすると、知るということによって信頼が生まれるということと共に、信頼するということを通して知るということがおこる、ということもまた真実なのだと思えてきます。
たとえば結婚相手に対して何らかの知識を得て、その上で信頼する、愛する、ということがあるわけですが、それとともに、相手に対する自分の知識は完全ではないけれども、この人を信頼しよう、愛そう、と決意する、ということもあるでしょう。
信頼は、不十分な知識を補う、あるいは完全にするものなのだと思います。それは、結局のところ決意や覚悟、ということが必要となってくるように思います。
さて、今朝の言葉は、神さまは創造主であるとともに、その創造の御業には何ら欠けがない、人間が幸せに生きていくうえで必要十分なものが備えられている。神さまはそのように備えて下さった。神さまの創造の御業は完全である、と語っているのだと思います。
神さまを信じるということは、創造主を信じる、信頼するということと共に、この被造世界は完全である、ということを信じることでもあります。創世記の創造の箇所では、創造のみわざが行なわれるごとに、「良かった」という言葉が語られています。この世界は「良いもの」なのです。
にもかかわらず、悲惨が起こっている。いったいどこに原因があったのだ、と私たちは問われているのです。神さまはことごとく良いものを備えてくださったのですから、人生の悲惨を神さまの責任にすることはできません。私たちは自らの罪を問わなければならないのです。イエスさまの十字架の贖いなくして生きることができないものであることを知らなければならないのです。
贖われた私たちは、あらためてこの世界が「良いもの」で満ちていることを信じたいと思います。そうしてその良さが破壊されないように、神さまから託されている責任を自覚したいと思います。責任をもって神さまのしもべとして世界に仕えて行きたいと決意したいと思います。
「わがぶどう畑になすべきことで、何かわたしがしなかったことがあるか。」
日曜日は、ヴァイオリンの演奏もあり、幸いな礼拝を献げることができ感謝しました。ライブ配信で礼拝を献げるかたには、最初ビデオがずれていて何が行なわれいるのか分からないことだったと思います。次回は最初から映るように工夫したいと思います。次週の日曜日も引き続きヴァイオリン演奏があります。というのは、実は、演奏される曲が長かったので、二週に分けて演奏していただくことになったのです。説教前に心をあらためて静める時としたいと思います。
日曜日の夕刻から昨日にかけて、年に二回の教職者のリトリートに参加してきました。関西で奉仕する牧師、伝道師たちとともに、修道院を会場にブラザーのもてなしをいただき、沈黙とみことばの思い巡らしの時を持ちました。
今日は牧羊会(団体の牧師会)です。コロナ禍でオンラインでの会議が続いてきたのですが、今日は久しぶりに本部に集まっての会議となります。総会前に準備しなければならないことは、大方できているので、弁当なども準備して、感染症対策をしつつ今日は交わりが中心の牧師会となります。普段、東近江の兄弟姉妹の協力で本部管理がなされているおかげで、難なく本部を会場に開催できること、感謝です。水漏れの箇所があったのですが、破損した個所が使っていない水道管だったので、キャップナット、という部品で補修できました。よかったです。ちなみ水道関係の部品にはいろいろなものがありますね。ホーム用品店でちょっと迷ってしまいました。
宿泊室から外を見ると鳥が一匹枝にとまっていました。
食事は黙食ですが、食前、食後にともに祈ります。
食堂には最後の晩餐の絵が掛けられています。先日の日曜日は聖餐式の黙想で「記念」という言葉を学びました。有名な最後の晩餐の絵も、確かシスティーナ礼拝堂の食堂にある絵ですね。イタリアですから、スパゲティーの湯けむりでもうもうとする中に、イエスさまもご一緒して下さっていると「記念」しつつ食卓を囲んでいたのでしょうか。もちろん愛餐と聖餐はちがうものですが。