静まりの時 イザヤ35・1~10
日付:2023年03月04日(土)
3 弱った手を強め、
よろめく膝をしっかりさせよ。
4 心騒ぐ者たちに言え。
「強くあれ。恐れるな。
見よ。あなたがたの神が、復讐が、
神の報いがやって来る。
神は来て、あなたがたを救われる。」
・・・
10 主に贖われた者たちは帰って来る。
彼らは喜び歌いながらシオンに入り、
その頭にはとこしえの喜びを戴く。
楽しみと喜びがついて来て、
悲しみと嘆きは逃げ去る。
(イザヤ35・3,4,10)
イザヤは、捕囚の苦しみに直面する中に向かって、神さまによる回復の預言を語りました。
どんなに苦しみの中にあっても、神さまが帳尻を合わせてくださる、その時が必ずやって来る、と語ります。その時には、喜びが歌われ、喜びを頭に戴き、喜びがついてくる、と言います。喜びのとき。それは喜びを歌う時であり、喜びを冠のように頭に戴く時であり、また喜び自体がついてくる時です。もう喜びから逃げられない、という感じでしょうか。
この喜びのすばらしさは、実際に喜びのときを迎えたときに味わうことですが、しかしいまだその時を迎えていないイスラエルにとってこの言葉は大きな力になりました。言葉が、力となるのです。
「死の床にある人、絶望の底にある人を救うことができるのは、医療ではなくて言葉である。」(池田晶子、『あたりまえなことばかり』、トランスビュー)
この文章には「宗教でもなく、言葉である。」と続くのですが、牧師である私には、言葉を語ることのない宗教は、死の床にある人、絶望の底にある人を救うことができない、と響きます。まことの言葉を語ることのできているだろうかと問われているようにも思います。
イザヤは、絶望の中にある人びとに向かって、神さまの言葉を語りました。その神さまの言葉が、真実に神さまの言葉であるのは、そこに希望が語られていたからだと思います。そしてイザヤはそのような希望を神さまから聴き取っていたのだと思います。必ず喜びの時を迎えさせてくださると神さまへの信頼に生きたのだと思います。
今日は備えの日。良い備えの一日を送りましょう。そして良い主の日を迎えましょう。