静まりの時 第一ヨハネ4・7~12
日付:2023年02月23日(木)
9 神はそのひとり子を世に遣わし、
その方によって
私たちにいのちを得させてくださいました。
それによって
神の愛が私たちに示されたのです。
10 私たちが神を愛したのではなく、
神が私たちを愛し、
私たちの罪のために、
宥めのささげ物としての御子を遣わされました。
ここに愛があるのです。
(第一ヨハネ4・9,10)
愛がなければ私たちは生きていくことができません。何かから愛されること、何かを愛すること。そして誰かから愛されること、誰かを愛すること。人格と人格の間に生まれる愛は、ことさら人に生きる力を与えます。
人間の愛はすばらしいものですが、しかし完全ではありません。どこかゆがんでいます。欠けがあります。なので、愛に生きようとすると、とたんに問題が生まれます。憎しみによる犯罪の多くは、その根底にゆがんだ愛が絡んでいるように思います。自分勝手な愛は、隣人も自分自身も傷つけてしまうのです。
ほんとうの愛を私たちは学ばなければなりません。教えていただかなければならないのです。
「ここに愛がある」と聖書は語ります。それは、神がひとり子の神をこの世に遣わされたこと、私たちの罪のために宥めのささげ物となってくださったこと。そのように神が私たちを愛してくださったこと。そこに愛があるのです。この愛を、私たちは学ばなければ、ほんとうの愛に生きることができないのです。
神がいのちをささげてまでも贖われなければならなかった私たちの罪とはなにか。罪とは犯罪やさまざまな倫理道徳に反することですが、まずは、的外れのことである、と説明されます。神さまという的を外してしまっている、という問題。そのために、神さまはご自身をささげて下さり、私たちを贖って下さいました。的の外れた私たちを贖うたことは、神さまのいのちをもってしか不可能だったのです。的外れの生き方は、それほどまでに深刻な問題です。
私たちの愛は、このような深刻な問題を持っているので、神さまの愛を学ばなければ、愛に生きようとしてもさまざまな問題を生み出してしまうのです。
では、的を外していない愛、健やかな愛、ほんとうの愛とは何か。それは、神さまという焦点を持っている愛、神さまに向かっている愛、そして神さまによって生み出される愛でしょう。神さまという的を外している限り、私たちの愛は結局のところ自己中心なのです。神さまという目当てをしっかりと定めることによって、私たちの愛はきよめられ、隣人も、そして自分自身も生かす愛となるのです。
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し・・・」。「私が」か「神が」か、どちらの主語にはじまる愛であるのか。
神さまは、ご自身のいのちを捨ててまでも、私たちを贖おうとされました。「神が」がすべての始まりにおられます。信仰に生きるということは、このように「神が」をまず初めに置くことです。この愛に愛されている私であることを確かにする。それがすべての始まりに置かれなければ、的を外した愛に生きることとなります。しかし神さを見上げて生きようとするならば、その道を神さまは豊かに祝福して下さいます。
「はじめに神が天と地を創造された。」(創世記1・1)