私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです

静まりの時 第一ヨハネ4・13~21
日付:2023年02月24日(金)

18 愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。
19 私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。
20 神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。
21 神を愛する者は兄弟も愛すべきです。私たちはこの命令を神から受けています。
(第一ヨハネ4・18~21)

 私たちが神さまのうちにとどまっていること、そして神さまが、私たちのうちにとどまっておられること。この二つのことは「御霊を与えてくださったことによって」分かると聖書は語ります。私たち人間のわざではない、ということです。
 御父、すなわち父なる神さまが、御子、すなわち子なる神であるイエスさまを「遣わされた」のを、私たちが「見た」のでその証しをしている、見えない神の証しが可能となるのは、父なる神さまから遣わされた御子イエスさまを見た、からである、というのでしょう。私たちの証しは、神の行動が先立っています。
 そして誰であっても、この御子イエスさまが、神の御子である、と告白するなら、神さまはそのうちにとどまり、その人も神の内にとどまっている、と聖書は語ります。私たちが告白する、という人間のわざを神さまは待ち望んでいてくださいます。
 ここにダイナミックな三位一体の神の姿と、その中に巻き込まれるように招かれている人間の姿が記されています。信仰に生きるということは、この三位一体の神さまの交わりの中に生きるということです。

 神さまは愛そのものであるので、神さまのこの交わりの中に招かれている人間も、おのずと愛に生きることになります。神さまへの愛、兄弟姉妹への愛に生きることになります。愛に生きるならば、そこには恐れはありません。恐れは、刑罰に伴うものですから、恐れがあるということは、愛が全きものとなっていないのです。恐れに支配されているならば、愛に生きるということが難しくなります。恐れがあるならば、愛よりも憎しみが生まれてしまいます。憎しみを原動力としての行動は破壊的になります。愛に生きるようにと招かれているのが私という存在であるにもかかわらず、愛に生きるどころか憎しみに生きていまうとすれば、それは自らを「偽り者」として生きていることです。自らを偽っている人生に幸せはないでしょう。
 恐れを締め出していただくために、人間は神さまの愛をいただかなければなりません。神さまの愛をいただき、神さまの愛に満たされて、そうして恐れを締め出していただいて、兄弟姉妹の中において真実の愛に生きる者となるのです。

 神さまに愛されていること。そのことを学ぶということが、結局人間に課せられた最大のことなのだと思います。今日という日が私に与えられたのは、私という存在が神さまにいかに愛されているのかを学ぶためなのです。