静まりの時 ヘブル6・9~12
日付:2023年02月25日(土)
神は不公平な方ではありませんから、あなたがたの働きや愛を忘れたりなさいません。あなたがたは、これまで聖徒たちに仕え、今も仕えることによって、神の御名のために愛を示しました。
(ヘブル6・10)
新改訳2017で「不公平」と訳されている言葉ですが、以前の新改訳3版では「神は正しい方であって」と訳されていました。原文ではここに「不義、不正、不公平、不実」といった単語がつかれていますので、新しい訳になって、より忠実な翻訳になった、ということでしょう。共同訳2018では「不義」と訳されています。
神さまは、義である、だから、私たちの働きや愛を忘れたりなさらない、と聖書は語ります。私たちの「行い」は神さまの前に記憶されている、ということでしょう。誰にも評価されることがなくても、神さまはしっかりと覚えていてくださるのです。
その「働きや愛」とは具体的にどのようなことであったのか。ここには「聖徒たちに仕える」と書かれています。聖徒たち、すなわち教会にともに集うすべての兄弟姉妹たちに、仕えた、ということが、彼らの働きや愛である、それが神さまに記憶されている、というのです。愛とは仕えること、なのです。
この「仕える」という言葉は、「給仕をする」という意味を持っていて、執事として仕える、務めを果たす、という意味です。宗教団体には、責任役員、という役割が重要な役割としてありますが、教会によっては、この役割をことさら「執事」という言葉をもって表現するところがあります。教会において役員会は、いわゆる権力集団ではなく、執事会、すなわち給仕する人たち、しもべの集団なのです。
仕えるという愛が、神さまに覚えられている、というのです。愛は動詞であって、行いが伴います。何かをした、という「行動」や「働き」が、愛である、ということです。しかしそのように、目に見える行動を、愛に直結してしまうと、難しい場面も多くあるのではないでしょうか。私が愛と思って行動したことが、必ずしも相手にとって愛と受け取らることばかりではない、ということもあります。また愛にならない、かえって愛とは逆のことを与えてしまう、ということもあるでしょう。愛は仕えることですが、仕えるということがひとりよがりになったとたんに、愛とは程遠いものになってしまいます。愛が愛であるためには、相手の心に寄り添うことがどうしても必要になるのです。
しかし人はそれぞれ独立した存在であり、その心の中にあるものには違いがあります。私が「よい」と思ったことも、相手にとっては「よくなかった」ということもあるでしょう。私の行動が愛であるためには、想像力を最大限に働かせていくことが必要となります。しかしそれでも想像力には限界がありますから、常に私たちの愛には「誤解」の可能性があり「限界」があります。
愛がひとりよがりにならないために、どうしても「ともに」行動するということが大切になってくるのではないかと思います。相手のことを考える、という想像力を培い、また働かせるためには、ともに「いる」ということが、大切になってくるのだと思います。
インターネットの発達で、相手の顔が見えない、というところで、さまざまな感情が発信される、という事態が起こるようになりました。すでに電話が発明された時からの問題だったのかもしれません。電話は、用件のみで、長電話をしない、という暗黙の了解があったように思いますが、インターネットでの情報伝達も、その使い方を人類は学ぶ必要があるのでしょう。顔の見えない相手に、自分の心を伝える、などということをして誤解が起こらないわけがありません。
開始から1年となるロシアのウクライナへの侵略戦争では、数多くの無人機が使用されているという報道がありました。先日亡くなられた漫画家の松本零士は、数多くの反戦的なテーマをもった漫画を描いておられます。その理由についてお話ししておられるのがテレビで放送されていました。お父さんは戦争中、戦闘機のパイロットだったそうです。撃墜する敵機のパイロットの顔が見える、そのパイロットにも家族がいる、鬼にならなければ機関銃を撃てない、と。相手の顔が見えるからこそ、そこに殺戮へのなにがしかのコントロールが起こる、ということでしょううか。心を鬼にしなければならないことが起こるということでしょうか。無人機を使用した相手の顔が見えない中での殺戮には、もはやストップのきかないものがあるのではないか、心を鬼にしなくても殺戮できてしまう恐ろしさがあるのではないか、と思いました。便利なインターネットが、無人機による殺戮のように使用されてはなりません。
仕える愛に生きるということは、いったいどういうことなのだろうか、と私たちは学び続けなければならないのだと思います。
今日は備えの日、明日は主の日です。良い備えの一日を送りたいと思います。