静まりの時 哀歌3・31~33
日付:2023年02月22日(水)
31 主は、
いつまでも見放してはおられない。
32 主は、たとえ悲しみを与えたとしても、
その豊かな恵みによって、人をあわれまれる。
33 主が人の子らを、
意味もなく、苦しめ悩ませることはない。
(哀歌3・31~33)
この33節は新共同訳、共同訳2018で次の通りです。
「人の子らを苦しめ悩ますことがあっても それが御心なのではない。」(新共同訳)
「人の子らを辱め、苦しめるのは 御心ではないのだから。」(共同訳2018)
人間が苦しみ悩むこと、辱められることは、神さまの本来の御心ではない。神さまのお心に人を苦しめるということは存在していない。だからこそ、もし苦しみ悩みがあるとすれば、それには意味がある。苦しみそのものが目的なのではなく、その苦しみによって生み出されるものがある。神さまはそのような目的を持っていて下さる。そう哀歌は歌うのだと思います。
聖書は苦しみを「試練」と語ります。試し、練る、という言葉です。苦しみによって、何か新しい「善なるもの」が生み出される、ということでしょう。神さまがその善を生み出してくださる、ということでしょう。また試練の中にある者に、善を生み出すようにと神さまは期待していてくださる、ということでしょう。試練の中にある者にとって善であるのか、世界にとって善であのか。その両方なのか。
しかし現実を見れば、必ずしも納得できることではありません。地上の生だけで完結するのが人の生である、いのちであるとするならば、納得できないのです。そこで来世、極楽、天国ということを語ることになります。死後の世界は、行って帰って来た人は誰もいませんので、科学的に確証するようなテーマではなく、信仰の問題です。
信じること、というと、何かあやふやなもののように考えがちですが、信じるということが、今を生きる者に希望や力を与えるのですから、これは客観的な確証といったものよりも、よほど重要なことのように思います。罪赦されて永遠のいのちに生きるという希望が、今の生を豊かにする、愛のあるものにするのですから、信じるということは最も大切なことです。
「あなたがたを襲った試練で、世の常でないものはありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えてくださいます。」(第一コリント10・13、共同訳2018)
先日風邪気味の孫の世話に娘宅を訪ねた際、孫にせがまれるままに絵本を読みました。子どもは飽きることなく何度も同じ本を読むことができる力を持っています。
今日は2月22日で、ねこの日、だそうです。