わたしは神であって、人ではなく、 あなたがたのうちにいる聖なる者だ

静まりの時 ホセア11・8~11
日付:2023年02月21日(火)

わたしは怒りを燃やして
再びエフライムを滅ぼすことはしない。
わたしは神であって、人ではなく、
あなたがたのうちにいる聖なる者だ。
わたしは町に入ることはしない。
(ホセア11・9)

 この節の最後の文章は、共同訳では「怒りをもって臨むことはない」。新改訳2017で「町」と訳されている単語には、恐れによる興奮状態、といった意味もあるそうで、いつくかの訳はそちらの意味を採用しているようです。協会訳口語訳では「わたしは滅ぼすために臨まない」、フランシスコ会訳では「わたしはお前とともにいる聖なる者で、破壊を好まない」。
 神さまは聖なるお方です。その神さまが聖であるという意味は、神さまは破壊を好まない、破壊をもって臨むことをしない、ということである、と聖書は語るのです。
 聖である。すなわち汚れを取り除く、ということは、どこか破壊をもたらすような気もします。様々な宗教が、聖さを求めるあまり、破壊行動に出た、という事例はいくつもあるのではないでしょうか。バーミヤン渓谷の古代遺跡群を破壊した急進的なイスラム主義勢力の行動にも、自分たちなりの聖さを求めたところがあるのかもしれません。キリスト教会も、2千年の教会史を振り返ると数々の破壊行動を行ってきました。いまもないわけではありません。
 しかし、神さまが聖である、ということは、その神さまが本当の神さまであれば、破壊、ということからは対極にあるはずなのだ、と思います。破壊、ということが行なわれた途端に、そこに本当に聖なる神さまがおられるのか、そこで神さまと言われている神は、本当に聖なるお方として存在しているのか、と問われなければなりません。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハネ3・16,17)

 聖を追い求めるあまり、破壊が行なわれ、結局焼け野原となり何も残らない、ということであれば、それは神さまのお働きではない、ということでしょう。大国が侵略戦争をはじめて1年となります。また国と国との間に疑心暗鬼が生まれ互いの敵対心が高まっているように思える現在、まことに聖なるお方が聖とされる世界を私たちは築かなければならないのだと思います。松本零士という漫画家が亡くなれたとの報道がありました。10代のころよく読みました。とくに戦争をテーマにした短編漫画を読みました。子どもなりに戦争の愚かさを教えていただいたような気がします。

「エフライムよ。わたしはどうして
 あなたを引き渡すことができるだろうか。
 イスラエルよ。どうして
 あなたを見捨てることができるだろうか。
 どうしてあなたを
 アデマのように引き渡すことができるだろうか。
 どうしてあなたを
 ツェボイムのようにすることができるだろうか。
 わたしの心はわたしのうちで沸き返り、
 わたしはあわれみで胸が熱くなっている。」(9)

「・・・私の心は激しく揺さぶられ 憐れみで胸が熱くなる。」(9、共同訳2018)

 あわれみの心で胸を熱くしていてくださる神さまが、今日も私たちとともにいて下さることを感謝します。