真理を行う者は、その行いが神にあってなされたことが明らかになるように、光の方に来る

静まりの時 ヨハネ3・16~21
日付:2023年02月17日(金)

悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない。しかし、真理を行う者は、その行いが神にあってなされたことが明らかになるように、光の方に来る。
(ヨハネ3・20~21)

 走光性という言葉を理科の時間に学びました。Wikipediaによると、昆虫などの生物が光刺激に反応して移動すること、とのこと。このうち、光のある方向に近づくような行動を「正の走光性」、光から離れるような行動は「負の走光性」というそうです。この負の走光性のことを、走暗性、走闇性とも書かれていました。暗闇に走ってしまう、という感じです。
 「悪を行う者」は、「光を憎む」。そしてその行いが明るみに出されることを恐れる。そのために光の方に来ようとしない、と言います。悪を行う者は、その行いが明るみに出されることを恐れている・・・。ということは、自らが悪を行っている、自らの内には悪がある、ということを知っているのです。知らなければ、能天気に光の下に出てくるでしょう。無邪気さとは対極にあるのです。自らの悪を抱えながら、それが明るみに出されることを恐れて人生を生きている・・・。自分は正しい、というプライドにしがみついている・・・。何と不幸なことでしょう。救い(3・16)からなんと遠く離れていることでしょう。
 平安に生きたいと願うならば、このような恐れから自由にされなければなりません。

 これに対して「真理を行う者」は、光の方に来る、と聖書は語ります。それは、自らの行いが正しいからではありません。自らが正しいということを主張するために、光の方に来るのではありません。「その行いが神にあってなされたこと」が「明らかになるように」光の方に来るのです。
 私たちはみな罪びとなのです。罪びとの行なうことは、つねに真理からは遠く離れています。そのような罪びとによってもし真理が行なわれたとするならば、それは神さまから出たこと、神さまがなさったことです。罪びとの内から真理が出るはずがありません。神さまこそ真実なお方である、ということを、喜びを持って明らかにすること。そこに、光の方に来る者たちの姿があります。光の方に来る者は、自らが罪びとであることを知りつつも、それを明らかにすることを喜びとする者たちです。
 自らはどこまでも罪びとだけれども、そのような罪びとを救って下さった神さまがいて下さる。この神さまこそご真実なお方である、ということを喜んで生きている者。それがキリスト信仰に生きる者です。キリスト者は自らを正しいと主張する人たちではないのです。
 悪を行う者と真理を行う者との違いは、両者とも罪びとなのですが、悪を行う者は、みずからの罪性を知りつつもそれをひた隠しにしようとする、そのために光の方に来ようとしない人。それに対して、真理を行う者は、自らの罪性を知り、それを神さまの前に明らかにすることを喜びとしています。罪人でしかない私のために、神さまがいのちを捨てて救って下さったことを喜んでいます。そのために自らが罪びとであることを、しっかりと受け止めています。何と自由な人生でしょうか。
 このような信仰に招いていただいたことを本当に感謝しています。

 天気予報によると、しばらく続いた寒さも和らぐそうです。今日は各種印刷作業、ライブ配信のための配線の見直し、夕刻には1件お見舞いに病院を訪ねる予定です。神さまの祝福を祈りつつ、今日も神さまの喜ばれる道を歩みたいと思います。教会につながる方々の祝福と平安を祈りつつ。