静まりの時 ヨハネ2・23~25
日付:2023年02月16日(木)
過越の祭りの祝いの間、イエスがエルサレムにおられたとき、多くの人々がイエスの行われたしるしを見て、その名を信じた。
しかし、イエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった。すべての人を知っていたので、人についてだれの証言も必要とされなかったからである。イエスは、人のうちに何があるかを知っておられたのである。
(ヨハネ2・23~25)
ヨハネの福音書には、イエスさまが最初に行われた奇跡が記されています(2・11)。イエスさまはさまざまなしるし、すなわち奇跡を行なわれました。多くの人びとがイエスさまの行なわた奇跡を見て、イエスさまの御名を信じました。
しかし、イエスさまご自身は、そのような「彼ら」にご自分をお任せにはならなかったと聖書は語ります。つまり奇跡を見て信じた人たちのことを信用されなかったというのです。イエスさまは、すべての人間のことを知っておられる。人間によってご自身のことが証しされることを必要とされない。ご自身が神の子、救い主であることは、神さまご自身が証ししてくださる・・・。人間の証言がいかにあやふやなものであるのかをイエスさまは知っておられました。
聖書は、人間が神さまを信じるということがテーマですが、もう一つのテーマは、神さまが人間を信じること、信用することが出来るか、ということだと思います。いくら私は神さまを信じます、と告白しても、その告白している自分は、果たして神さまに信用されるような人間であるだろうか、と考えさせられる。それが聖書のもう一つのテーマだと思います。あるいはもしかすると、このテーマのほうが大切かもしれません。
神さまへの信仰の証しをする人間。その人間がいかにあやふやであるのか。立派な信仰の告白をし証しをして受洗した人のうちどれだけの人が、生涯にわたって信仰を貫き通しているだろうか。精力的な伝道活動を行っていた伝道者が、終身伝道者としての生き方を全うすることができたであろうか。キリスト教界をリードするような教会が、世代を超えて証しを立て続けることをしてきただろうか。などなど。歴史は、人間のあやふやさを物語っているのではないか、と思います。それでも、神さまは人間をあきらめることをなさいません。その神さまのご真実に、ただ人間は支えられているのだと思います。
イエスさまは、人間を、実は信頼しようとしておられるのです。しかしこの「お任せにならなかった」という言葉は、大切な言葉で、私たちは真摯に受け止めなければなりません。奇跡を見て信じた、ということなのだろうか。そうではなく、何はなくとも神さまに信頼するという信仰に生きているだろうか、と。
神さまに対してあやふやな私たちは、互いの愛においても、あやふやです。しるしがあれば信じる、愛する、という関係に生きてしまいます。教会で学ぶべきことは、何はなくても神さまを愛する、という信仰に裏打ちされつつ、互いの愛においても、何はなくても互いを信頼し、愛に生きようとする、ということでしょう。もし、上手にできれば愛される、上手にできなければ愛されない、ということが教会のあり方であれば、そこは平安な場所にはなっていないということでしょう。
ただ罪びとでしかない者を愛してくださったイエスさまの愛に応えて、ひたすら愛と信頼に行きたいと思います。そのために、神さまに信頼され、神さまが任せてくださるような私となることを心掛けたいと思います。そしてそのために、かわらない神さまの愛が注がれていることを、しっかりと受け止めて行きたいと思います。
昨夜は久しぶりに夜の祈祷会が開催され、これも久しぶりですが、私も参加をしました。実に一昨年の入退院以来となりますので1年半ぶりです。昨夜は、特別に講師が来られて、その宣教の働きについてお話しくださいました。様々な困難を乗り越えて、主の福音宣教が前進してきたことを教えていただきました。お話しの後、参加者からのいくつもの質問があり、なかなか話が終わりませんでした。ご参加くださいました皆さん、遅くまでありがとうございました。40年以上もの働きを振り返っての冊子を置いて行って下さいましたので、またご覧ください。受付あたりに置いておきます。
昨日は寒い日となりました。今朝はすこし穏やかですが、もう少し寒さは続くそうです。ご自愛くださいますように。