途方に暮れますが、行き詰まることはありません

静まりの時 第二コリント4・7〜15
日付:2023年02月10日(金)

私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません。・・・
(第二コリント4・7,8)

こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働いているのです。
(第二コリント4・12)

 人間は「土の器」のように弱くもろいものです。見かけもよくありません。しかしその中に「宝」を入れています。それは「この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるため」である、とパウロは語ります。
 宝とは福音のことでしょう。あるいはイエスさまご自身である、といってもよいかもしれません。自らは土の器である、しかしその中に宝が入っている、福音をいただいた、イエスさまご自身が住んでいてくださる、だから四方八方から苦しめられるけれども窮することがないのだ、と語ります。
 もし四方八方からの苦しみに窮することがあるとすれば、自分を土の器ではないものととらえてしまっている、そうして自分が輝くことばかりに終始してしまっていて、せっかくいただいた宝が輝かないようにしてしまっているからだと思います。みずからが土の器であると告白する、そのような謙遜が見失われていると、自分の力に終始してしまい神さまからの測り知れない力が発揮できない、苦しみに出会ったときに窮してしまう、行き詰ってしまうのです。
 「死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働いている」という言葉が確かに響いてきます。伝道者である、ということは、教会に集う人びとにいのちを与えること、いのちが教会に集う人びとのうちに働いていくこと、そのために奉仕する、ということです。そのためには、死が私のうちにはたらく、ということをあまんじて受け入れることが必要となって来ます。あるいはそのように、死が自分のうちに働くということを受け入れる、さらには喜びとする、ということが伝道者として生きていく、ということなのです。
 なにも伝道者だけではありません。キリストにある者はみなこのような信仰生活に招かれています。もし自分が輝くことを追い求めるような信仰生活、あるいは教会での指導がなされているとすれば、それはもはやイエスさまを信じる信仰ではない、イエスさまの教会ではないと言わざるを得ません。
 神さまからの宝を輝かせようとしているか、逆に自分が輝くことを追い求めているか、はさまざまな機会に神さまが教えてくださいます。たとえば、誰からか非難されることがあったとき、あるいは非難とまでは行かなくとも、ちょっとした間違いを指摘されたり、諭されたとしたとき、どような反応をするのか、で明らかにされるのではないかと思います。まずは自分の間違いや誤りを認めようとしません。認めたとしても自己弁護をはじめます。さらには間違いを指摘した相手に対して攻撃しようとします。そのような心に支配された時、私たちは自分を輝かせようと必死になっているのです。それは自らの内にいただいた宝の価値を低く見積もっているということではないでしょうか。心の貧しい者こそ幸いなのです。間違いや足りなさを指摘された時、もちろん真実を明らかにすることは大切なことですが、しかしいたずらに自己弁護をしたり相手を攻撃したくなることから自由にされ、おっしゃる通りです、ほとほと自分でも愛想が尽きます、しかしこんな私を愛していてくださる神さまの愛は変わりがありません、なんとイエスさまはすばらしい方だろうか、と主に感謝していればいいのだと思います。
 伝統的に教会の聖歌隊は、いわゆる光り物を身に着けない、ということを聞いたことがあります。プロテスタントが生まれたとき、説教者はそれまで身に着けていたきらびやかな祭服を脱ぎました。もともとはきらびやかな祭服を着るなどということはなく、ただ文盲率の高いなかでの宣教のために、色彩が用いられていたことだったようですが、エスカレートしていったのでしょう。人間は弱いものです。つい自らを輝かせようとしてしまいます。しかしそれでは人生の苦しみに行き詰ってしまうのです。土の器であること、そうしてそのなかに宝をいただいていることを確かにするならば、どのような困難の中でもい行き詰ることはないと、聖書は語ります。隣人がいのちに生きるために、死をわがものとして受け入れる。そのような「貧しさ」のなかにこそ、まことの平安と、永遠のいのちに生きる喜びがあるのです。