わたしに栄光を与える方は、わたしの父です

静まりの時 ヨハネ8・48~59
日付:2023年01月07日(土)

50 わたしは自分の栄光を求めません。それを求め、さばきをなさる方がおられます。
・・・
54 イエスは答えられた。「わたしがもし自分自身に栄光を帰するなら、わたしの栄光は空しい。わたしに栄光を与える方は、わたしの父です。この方を、あなたがたは『私たちの神である』と言っています。
・・・
58 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』なのです。」
(ヨハネ8・50,54,58)

「わたしは自分の栄光を求めません」。

 ここのイエスさまのご栄光の源泉があります。もしイエスさまがご自分の栄光をお求めになるようならば、その栄光はむなしい、すなわち空っぽなのです。栄光は、父から与えらえれるもの、なのです。
 権威という言葉があります。これも他者から与えられるものです。もし自分自身で求めてしまったらそれは権威ではなく権力でしょう。
 同じように、栄光も自分で求めてしまったら、おかしなことです。スポーツ選手が、私は自分の栄光を求めています、と金メダルの獲得への希望を語ったとしたらどうでしょう。どこかむなしさを感じます。逆に金メダルを獲得したスポーツ選手が、それまで支えてくれたコーチやチームメイト、家族への感謝を語る姿は美しいものです。そこに輝く姿、栄光を私たちは見ます。
 イエスさまのご栄光は、父なる神さまがお与えになったものです。十字架と復活の輝きは、父なる神さまのお心なのです。

「わたしはある」。

 出エジプト記3章14節の神さまのお名前を思い起こします。イエスさまはご自身のことを、旧約聖書に語られた神そのものである、と言われたのです。
 神さまは三位一体の神としてご自身を私たち人間に現してくださいました。私たちは三位一体の神に出会い、まことの神さまを知ることが出来ます。それ以外の方法では、正しく神さまを知ること、神さまを礼拝すること、神さまを愛することができません。
 三位。すなわち父なる神、子なる神(イエスさま)、聖霊なる神、の三位が、それぞれに人格(位格)を持ちながら一つであること。

「・・・神が父であり、子であり、聖霊であることへの信仰なのです。神は愛であるという言葉は、ここにおいて初めて意味を持つものとなります。」

(ヨゼフ・ラツィンガー、『イエス・キリストの神―三位一体の神についての考察』、春秋社、2011、35頁f)

 これは先日帰天された前教皇ベネディクト16世ヨゼフ・ラツィンガーの言葉です。前教皇は優れた神学者であったと言われます。この本は、団体の神学セミナーでも講師から三位一体の理解のための優れた書物として紹介されていました。まことの愛を知り、まことの愛に生きるために、私たちは三位一体の神に出会う必要があるのです。また神さまはご自身をそのようなかたちで私たちに出会いたいと願っておられるのです。

 今日は備えの日、明日は主の日です。新年を迎えて二回目の主日礼拝となります。三位一体の神さまへともに礼拝を献げることができることを感謝します。明日からはもとのマタイの福音書からの講解説教となります。少し前の部分を思い出しながら進んでいきたいと思います。