静まりの時 マタイ10・5~15
日付:2023年1月9日(月)
どの町や村に入っても、そこでだれがふさわしい人かをよく調べ、そこを立ち去るまで、その人のところにとどまりなさい。その家に入るときには、平安を祈るあいさつをしなさい。その家がそれにふさわしければ、あなたがたの祈る平安がその家に来るようにし、ふさわしくなければ、その平安があなたがたのところに返って来るようにしなさい。
(マタイ10・11~13)
イエスさまは弟子たちを福音宣教のために遣わされました。そのときにいくつかの注意事項を伝えられました。そのなかに、ふさわしさを調べること、がありました。福音を聞く「ふさわしさ」とはいったいなんでしょう。
聖餐式の時に、聖餐にあずかるための「ふさわしさ」が問われます。自らを吟味することが問われます。そのときのふさわしさとは、自分が信仰に立派に生きているか、倫理道徳的に正しくあるか、ということではありません。自らが罪びとであること、その罪を償うことは自分では不可能であったこと、ただイエスさまだけが十字架と復活において償い、贖って下さったこと、を吟味します。つまり自分がいかに「ふさわしくない」人間であるのかを吟味するのです。自分は何とふさわしくないものか、と恐れ、悔い改め、神さまの前にひざをかがめる者こそ、ふさわしいものなのです。
弟子たちに「だれがふさわしい人かをよく調べ」るように命じられたことにおいても、そのようなふさわしさを考えていいのではないかと思います。自らの罪を悲しむ人こそ弟子たちが遣わされなければならないふさわしい人なのです。
その家に入るときには、平安(シャローム)を祈るあいさつをしなさい、と言われました。シャロームは、一般的なあいさつの言葉と言われます。あいさつの言葉は、もともとの意味がいつの間にか薄れてしまうものでしょう。このシャロームも、もともとは平安という意味でしたが、私たちが使う、こんにちは、のように、あまり意味は考えられずに使われていたのかもしれません。しかしここでイエスさまは、その「平安」というもともとの意味を明確にされているようです。弟子たちが語る「平安」は、ふさわしければその家に来るようにし、ふさわしくなれば、消えてなくなるのではなく、語った弟子たちに帰って来る、そのようにしなさい、と言われました。宅急便の方が運んできてくださる荷物のようにまるで目に見える形があるもののようです。
イエスさまを信じる者が、イエスさまに遣わされるとき、その語る「平安」の言葉は、それほどに確かなものなのです。そのような恵みの力を与えていてくださるのです。
私たちには、その家がふさわしいかどうかなど判断することは、実際はできませんし、そのようなことは、ふさわしいこと、ではないと思います。むしろ、どのような家でも、どのような人にでも、私たちは平安を語るべきです。その語る平安が留まるかどうかは、神さまだけがご存知であり、私たちは神さまに委ねてひたすら平安を語る者でありたいと思います。
昨日は新年を迎えて二回目の主日礼拝の日。元旦礼拝での聖書の言葉は、年間の聖句をともに学びましたが、昨日からマタイの福音書の講解説教に戻りました。アドベントの前からですから、6週間ぶりということになりました。
「18日の日曜日、カルヴァンはサン・ピエール大聖堂で、帰還後初の説教を行う。かたずをのんで彼の第一声を待つ大会衆の前で彼は静かに口を開いた。三年前この町を出るときまで講じていた同じテクストを、ちょうど先週のつづきといった具合に、彼は講解しはじめた。辛かった過去のこと、彼の敵たちについての言及は、ひとこともなされなかった。しばらくの休みをとったあとで仕掛けた仕事をやりにもどってきた、彼の説教はそのような印象を与えた。」
(久米あつみ、『人類の知的遺産28 カルヴァン』、講談社、1980年、162頁)
のちに宗教改革者と呼ばれるようになるカルヴァン。勝手な想像をゆるしていただくとすれば、3年間ぶりに教会に戻ってはじめた最初の説教のはじまりの言葉は「ええっと、前回はここまで学びました。今日はここから学びましょう」という具合だった、ということでしょう。講壇での説教のあり方を考えさせられます。
聖餐式の黙想も行いました。飲食ができない中なので、今回も黙想のみですが、今年は元通りの聖餐式が行なえるようになればと祈っています。