後まで耐え忍ぶ人は救われます

静まりの時 マタイ10・16~25
日付:2023年1月10日(火)

また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。
(マタイ10・22)

 イエスさまの名のために、すべての人に憎まれる、とはいったいどういう意味でしょうか。
 私などは、人から憎まれるなどということはできるだけ避けたいと考えているところがあります。できるだけ波風立てないで、穏便に、対立的な場面を避けたいと考えているのです。しかし、イエスさまを信じる信仰に生きようとするならば、波風が立ち、穏便どころか対立的な場面に出会い、ときに戦いも起こってしまう、ということなのでしょう。
 神さまが愛される世(ヨハネ3・16)ではありますが、やはりこの世は罪の世なのです。イエスさまを信じる、ということは、罪を敵として立つ(新聖歌397)、ということですから、罪の世から憎まれることは当然のことなのかもしれません。
 イエスさまを信じるということは、義に生きるということでもあります。まことの正しさに生かされ始めるならば、この世と敵対することも当然のことかもしれません。もしこの世と仲良くやっているならば、結局罪の世に迎合しているだけかもしれません。

 イエスさまの名のために、ということですから、当時のユダヤの人たちが、それまで信じていた律法主義の生き方ではなく、恵みの生き方、福音に生きる生き方、ということでしょう。福音に生きる、すなわち一方的な神さまの恵みに生きようとするならば、この世は敵対するものとなる、ということでもあります。
 人間は、あんがい律法主義者です。生まれつき律法主義者なのだ、ともいわれます。ガラテヤの教会は、福音で始まったのに、すぐに律法主義者になってしまいました。その事をパウロは嘆いています(ガラテヤ1・6~)。それは、結局「人」から憎まれる道を避けてしまった結果なのではないかと想像します。福音に立ち続けることは、律法主義者である人間のあり方に抗い続けことになるのです。

 この世に抗って福音に立ち続けるためには、忍耐、が必要である、とイエスさまは言われました。信仰の戦いの武器は、忍耐、なのです。
 一般的に神さまを信じるというと、聖く正しく、何の間違いもなく、犠牲と愛に生きること、と考えるかもしれません。多くの宗教はそうだと思います。しかしイエスさまを信じる信仰は少し違います。イエスさまが十字架と復活によって、私たちは罪から贖われました。その事を信じたのがキリスト者です。ですから常に自分は罪びとであるということを学んでいなければなりません。悔い改め生き続けるのです。それが日々主の教えを口ずさむ生き方であると先日の日曜日も学びました。ですからいわゆる立派さを自分や他者の求め、お互いに風紀委員(笑)のようになることではなく、へりくだりと弱さに生きることがキリスト者の生き方です。教会も、そのように、弱さや間違いを許容しながら、お互いに受け入れ合い、互いに相手を自分よりもすぐれたもの(ピリピ2・3)と思いながら、ともにイエスさまを見上げ、イエスさまにきよめていただくところです。ですからだれもが安心していることのできるところ。それが教会なのです。忍耐に生きる者の群れが、平安な教会を形づくります。

 もちろん自分の罪や足りなさが人びとからの憎しみを生み出すことで、それに開き直ってしまってはいけないと思います。このような者をイエスさまは愛して下さって神の子としてくださったのです、と感謝していればよいのだと思いますが、どうぞこのような者のためにお祈りください、とへりくだっていればよいのだとも思います。忍耐ということですが、結局自分自身に忍耐するということも大切なことかもしれません。