たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい

静まりの時 マタイ10・26~33
日付:2023年1月11日(水)

26 ですから彼らを恐れてはいけません。おおわれているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずにすむものはないからです。
27 わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。あなたがたが耳もとで聞いたことを、屋上で言い広めなさい。
28 からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。
(マタイ10・26~28)

 イエスさまが恐れてはならないと言われている「彼ら」とは、総督や王たち、迫害者のことでしょう(18、23)。恐れずに語りなさい、明るみで言いなさい、屋上で言い広めなさい、とイエスさまは言われました。何を語るのか。イエスさまが暗やみで言われたこと、耳もとで聞いたことを、語るのです。誰かの秘密や自分の何かを語るのではありません。私たちがイエスさまとの一対一の豊かな交わりの中でイエスさまから聴いたこととは一体何でしょう。イエスさまが語られることとは、愛であり福音でしょう。愛を語るのに恐れてはならない、と言われたのです。
 私たちは福音を語ることを恐れるでしょうか。愛を語ることを恐れるでしょうか。恐れるとすれば、その恐れとは一体何でしょう。愛を語ることにおいて生まれる恐れとは一体何でしょう。

 自らが罪人であることを知っている人間は、本当に愛を語ろうとすると恐れるのだと思います。自分がいかに愛のない人間であるのかを知っている者は、愛を語ることを躊躇するのだと思います。しかし、イエスさまは恐れずに語りなさい、と言われました。それは「おおわれているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずにすむものはないから」だと言われたからです。愛を語るのに恐れがあったとしても、愛に生きているならば、おのずとその愛は明らかにされる。だから胸を張って愛を語ればよい、自分なりに語ればよい、人と比較する必要はない、恐れずに語りなさい、と言われるのでしょう。

 いかに自分が愛のない足りない人間かを知りながらも、恐れから解放されて愛を語るためには、まず神さまを恐れ(畏れ)なければなりません。逆に神さまを恐れない、というのは、何ものをも恐れない、ということではなく、むしろいろいろな恐れに縛られることです。神さまを恐れるならば、すべての恐れから解放されます。

 主にある者は、恐れずに愛を語るように招かれています。それはまた、イエスさまご自身を語る、イエスさまご自身を認める(32)ということでもあります。
 愛を語るとは、自分の愛深さを語るのではありません。自分の愛の足りなさを棚に上げて(笑)、イエスさまの愛を語るのです。イエスさまがいかに愛深いお方かを語るのです。そして自らを差しながら、こんな罪人を愛してくださるお方がイエスさまなのです、と語るのです。イエスさまの愛を語ることは、同時に自分の罪深さ、足りなさ、を語ることでもあります。
 牧師は主の日の講壇からイエスさまの愛を語らなければなりません。それは愛であるイエスさまを語ることです。会衆は礼拝において、イエスさまの愛に出会わなければなりません。それはイエスさまご自身にお出会いすることです。聖書には、道徳訓や戒め、さまざまな生き方の道も語られていることではあります。しかし聖書が何よりも語ろうとしていることは、イエスさまの愛であり、イエスさまご自身なのです。