静まりの時 2023年01月02日(月)
マタイ16・21~28
21 そのときからイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた。
22 すると、ペテロはイエスをわきにお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。」
23 しかし、イエスは振り向いてペテロに言われた。「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」
24 それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。
25 自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。
26 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。
27 人の子は、やがて父の栄光を帯びて御使いたちとともに来ます。そしてそのときには、それぞれその行いに応じて報います。
28 まことに、あなたがたに言います。ここに立っている人たちの中には、人の子が御国とともに来るのを見るまで、決して死を味わわない人たちがいます。」
(マタイ16・21~28)
「そのとき」。弟子の筆頭と言ってもよいシモン・ペテロがイエスさまに向かって「あなたは生ける神の子キリストです」と告白し、それに対してイエスさまが天国の鍵のお話しをされ、またご自身がキリストであることをだれにも言ってはならないと命じられたました。そのときに、やがて自らが受ける十字架の苦しみのこと、そして復活のことをお話しされました。
すると、ペテロはイエスさまをわきにお連れして、いさめ始めて、そんなことがあなたに起こるはずはないと、イエスさまに言いました。そのペテロに、イエスさまは、今度は「下がれサタン」と言われたのです。あなたはキリストです、と立派な信仰の告白をしたすぐ後で、下がれサタン、と言われなければならないようなことを口走ったペテロ。私たちもそのような者であることを思います。
ペテロはいさめ始めたといいます。いさめる(諫める、禁める)とは、おさえ止める、禁止する、戒める。あるいは、目上に対してその誤りや良くない点を改めるように忠告する、ということでしょう。原文では二つの単語が使われていて「叱りつけ+始めた」という感じです。この「~始めた」という言葉は、始め、という言葉で、支配する、という意味でも使われたりします。つまりペテロがここでやっていることは、諫めている、というよりも、神さまへの侵略を始めている、ということでしょう。言葉は丁寧なのですが、マウント行動というか、さらにはそこにマイクロアグレッション(Microaggression)を感じるのは私だけでしょうか。人間は、信仰的な告白しつつ、その舌の根も乾かないうちに、神さまを侵略し、自分が神になり、神さまから「サタン」と言われなければならないようなことをしでかす者なのです。
イエスさまは「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と言われました。この「人」というのは、人間的なこと、ということでしょうけれども、結局、自分のこと、ということではないかと思います。神さまのことを思うべき信仰において、結局自分のことを考えている、それが人間の罪なのです。そしてそこにこそ滅びがあるのでしょう。
あらためてイエスさまは言われました。
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。人の子は、やがて父の栄光を帯びて御使いたちとともに来ます。そしてそのときには、それぞれその行いに応じて報います。(24~27)
人間のいのちなどどうでもよいと言っておられるのではありません。「自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか」と言っていてくださるのですから、自分のいのちは大切なものなのです。全世界よりも大切なものなのです。その大切ないのちを、本当に大切にするためには、自分を捨て、自分の十字架を負って、イエスさまに従っていくこと、イエスさまのためにいのちを失うこと、が必要である、と言われたのです。一見、矛盾しているような言葉ですが、ここに聖書の語る信仰の真理があると思います。
私たちは本当の意味で自分を、自分のいのちを大切にすることが出来るのでしょうか。薬物など依存症で苦しむ人たちと話していると、いかに自分というものが不確かなものであるのか、自分の感情の赴くままに生きたならば、結局自分を滅ぼしてしまうことになる。そんな厳しい現実に生きる苦しみを教えられます。不確かな判断しかできない自分の虜(とりこ)にならない、そのために、ひたすらイエスさまにゆだねていく、その大切さを教えられます。
委ねるというのは、良い言葉ですが、必死に滅びを闘うことを強いられている人たちにとってみれば、それはすこしやわらかすぎる言葉です。ここでイエスさまが言われたように、捨ててしまう、失う、というほどの強い言葉でないと、どこかの部分で自分に引きずられてしまうのです。
自分を自分の手から離してしまう。イエスさまの御手の中に自分のいっさいを委ねてしまう。そうしてこそ、私たちは自分のいのちを本当の意味で失わず、自分自身に生きる者となるのです。「人の子は、やがて父の栄光を帯びて御使いたちとともに来ます。そしてそのときには、それぞれその行いに応じて報います」(27)。やがての時に、イエスさまは問われます。そしてそれぞれのその行いに応じて報いられます。そこでの問いは、どれだけ立派な生き方をしたかということではなく、あなたはどれだけわたしに委ねたか? という問いなのだと思います。
「まことに、あなたがたに言います。ここに立っている人たちの中には、人の子が御国とともに来るのを見るまで、決して死を味わわない人たちがいます。」(28)
不思議な言葉です。どうしてこんなことをイエスさまはここで語られたのか。この言葉は、共観福音書のすべてに記されているようです。ヨハネの21章22節にも同じような言葉が記されていますが、そこでは、他の人の生き方と比較するのではない、あなたは、わたしに従いなさい、と言われたような感じがします。イエスさまにゆだねる、という信仰生活は、人と比較する必要がない、ということではないかと思います。他人のことはどうでもよい、あなたは、十字架を負ってわたしに従いなさい、わたしに委ねなさい、と言われているだと思いました。
昨日は、元旦礼拝が行なわれました。礼拝の前に記念写真を撮りました。毎年、紀州からみかんを送って下さる方がおられて、来会者の皆さんにお持ち帰りいただきました。最初は、ひとり二つお持ち帰りください、とアナウンスされたのですが、思いのほか参加者が多くて、後で一つで良い人は一つにしてください、とアナウンスされることになり、ほほえましい元旦礼拝の時となりました。天候も晴天ということではありませんでしたが、穏やかな元日でした。オンラインでの礼拝参加者も含めて、信仰の仲間とともに礼拝をもって新しい年を出発することが出来ました。感謝します。