仕える者になりなさい

静まりの時 マルコ10・42~45
日付:2023年01月02日(月)

そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。
「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められている者たちは、人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」
(マルコ10・42~45)

 イエスさまが彼ら、すなわち弟子たちを呼び寄せて言わなければならないことになったのは、弟子のヤコブとヨハネが、イエスさまに向かって不遜な申し出をしたこと(35~)、またそれを聞いた弟子たちがヤコブとヨハネに対して腹を立てたことによります。
 弟子たちの心を支配していたのは、支配欲、権力欲だったのだと思います。偉くなりたい、先頭に立ちたいとの願望が、弟子たちの心に渦巻いていたのです。そのような弟子たちにイエスさまが語られたのがこのマルコ10章42節からの言葉でした。

 「異邦人の支配者」。それは単にユダヤ人ではない人たちというよりも、神さまを信じない人たち、と理解してよいのだと思います。神さまを信じない、神さまを知らない、あるいは神さまを心の王座にお迎えしていない、神さまを主とすることなく依然自分自身を主としている、そういう人たちは、人びとに対して横柄にふるまう、また人びとの上に権力をふるっている、とイエスさまは言われました。

 「横柄にふるまう」とは、原語では、圧倒・圧服・圧制する、打ち勝つ、支配者・主人・君主である、支配する、といった意味です。「権力をふるう」は、職権を行使する、(あるいは)職権を濫用する、権力をほしいままにする、といった意味です。いずれも、支配する、ということですね。
 それに対して「あなたがたの間」、すなわちイエスさまの弟子たちの間では、そうであってはならな、と言われました。おおよそイエスさまを信じる者たちの間では、互いに支配者であってはならない、むしろ「仕える者」「しもべ」となりなさい、と言われたのです。

 「仕える者」(ディアコノス)とは、もともと給仕する人、という意味で、執事(ディーコン)という言葉の語源になった言葉です。また「しもべ」(ドゥーロス)は、文字通りしもべ、奴隷のことです。世界各地を旅して宣教する船に「ドゥーロス」という名前の船があります。

 「仕える者になりなさい」。ここで心に留まるのは、仕えなさい、と言われているのではなく、「仕える者」に「なりなさい」、と言われていることです。原文でも「仕える者」という名詞と「なる」という動詞(Be動詞)で成り立っています。また同様にしもべのように行動しなさい、と言われているのではなく、しもべとなりなさい、と言われていることがこころに留まります。
 「なりなさい」とは、すなわち、そのような人間となる、ドゥーイング(為すこと、行動)ではなく、ビーイング(あり方、存在)を語っていて下さる、ということなのです。

 奉仕という行動ではなく、仕える者となること、しもべとなること。仕える者、しもべという存在となること。しかし私たち罪びとは、どちらかというと、異邦人の支配者のように、横柄にふるまう、職権を濫用する、ということをしてしまう、ということでしょう。援助活動をしたり社会的活動をしたりということにおいても、自らが支配者となってしまう者なのです。開発途上国と言われる国々において行われている大国の活動が、まさに大国によるその国への支配となっているということもあるような、ないような・・・。今、片田珠美という精神科医の書いた『他人を攻撃せずにはいられない人』(PHP研究所、2013年発行)という本を読んでいるのですが、まさに人間のなかにある支配欲という罪の姿を教えられます。

「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです」(45)。

 イエスさまは、仕えるために、この地に来て下さいました。それは、多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与る、ということでした。仕える、ということは、自らのいのちを差し出すことである、と言われたのです。自らが支配者として君臨するのではなく、自らが消滅すること、それが仕える者となる、しもべとなる、ということなのでしょう。

「ですから、施しをするとき、偽善者たちが人にほめてもらおうと会堂や通りでするように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。あなたが施しをするときは、右の手がしていることを左の手に知られないようにしなさい。あなたの施しが、隠れたところにあるようにするためです。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」(マタイ6・2~4)

 これは山上の説教でイエスさまが語られた言葉です。右の手がしていることを左の手にしられないようにせよ、というのはちょっと無茶な話です。それは、施し、あるいはそれに限らずおおよそ自分の善なる行動を、自分自身の記憶から消し去る、ということではないかと思います。私たちは、自分の否定的な行動がいつまでも忘れられなくて縛られてしまうということがありますが、案外、善なる行動も私たちの足をもつれさせます。過去の栄光に縛られて、今の自分を真実に生きることが出来ない、ということも起こって来ます。

 善なる行動も私たちの足をもつれさせる、ということならば、仕える者となる、しもべとなる、ということは、そのような足をもつれさせることから、私たちを解放する、ということではないか、とも思えてきます。仕える者となる、しもべとなる、ということは、まことの自由に生きる道なのかもしれません。

 私たちは仕える者としていただきました。しもべとして生きるように招かれました。もう自らのプライドや栄光にしがみつくことから解放されたのです。自分が必死で守らなければならないと思っていた自分はすでにイエスさまの御手の中にあるのです。なんだか身も心も軽くなった気持ちがします。イエスさまを信じる者としていただいて本当に感謝です。