母マリアとともにいる幼子を見、ひれ伏して礼拝した

静まりの時 2023年01月01日(日)
マタイ2・1~12

それから家に入り、母マリアとともにいる幼子を見、ひれ伏して礼拝した。そして宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
(マタイ2・11)

 東方から博士たちが、救い主を礼拝するためにはるばる旅をしてやってきました。「かつて昇る星」が「彼らの先に立って進み」ました。その動く星が、「幼子のいるところまで来て」「その上にとどまった」と聖書は語ります。動き続けた星が、救い主のところでピタッととどまったのです。「その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ」。
 動き続けた星。その星がとどまった。そのとどまった星を見て彼らはこの上もなく喜んだのです。もうこれ以上旅を続ける必要がない、という喜びでしょうか。
 イエスさまとの出会いは、もうこれ以上旅を続ける必要がない、という喜びです。人間はさまざまに自らの救いを求めて人生の旅を続けています。その旅においてイエスさまとの出会いは、もうこれ以上旅を続ける必要がない、ここにまことの救いがある、との出会いなのです。

 時の王ヘロデは、東方からやって来た博士たちの言葉に動揺しました(3)。エルサレム中の人びとも王と同じであった、と言います。彼らはいったい何を恐れたのでしょうか。ヘロデは秘かに博士たちを呼んで、星について詳しく尋ねます。「行って幼子について詳しく調べ、見つけたら知らせてもらいたい。私も行って拝むから」。この言葉が偽りであることは、そののちのヘロデの行動を見ると明らかです。王は2歳以下の男の子を皆殺しにします(16)。それは幼な子イエスさまを殺そうとしたということですが、ひとりを殺すために、数えきれないほどの幼児を殺害したのです。恐ろしいことです。恐怖に縛られた権力者のなすことなのだと思います。

 幼な子との出会いを果たした(11)東方からの博士たちは、母マリアとともにいるイエスさまを見て、ひれ伏して礼拝を献げます。この「ひれ伏す」という言葉は、「落ちる、倒れる、地に伏す、消滅する、亡びる」などという意味を持っています。自分というものが、一切なくなってしまうということでしょうか。礼拝を献げるということは、そういうことなのです。少なくとも自己主張や自己満足、自己充足、自己確立が目的とされることではない、ということですね。
 彼らは礼拝と共に、献げものをしました。黄金、乳香、没薬。それぞれに意味が語れることです。王、祭司、預言者、あるいは十字架の死を現している、などなど。
 彼らはその献げものを「宝の箱」(11)を開けて取り出したと聖書は語ります。この旅の間、片時も離すことのなかった宝の箱。その大切なものを献げたのです。ある解説には、これらは星占い師である彼らにとって、星占いをするための商売道具だったのではないか、などと書かれていました。そうとすると、これからどのように生計を立てていったのだろうか、などといらない心配をしてしまいます。そこにも、一切の物を神さまにお献げする彼らの姿が明らかにされているように思います。
 私たちにとって、大切な宝とは一体なんでしょうか。いろいろと大切なものを思い浮かべることが出来ると思います。私はやはり「自分自身」ではないかと思います。
 大切な自分自身を献げること。それは結果的に自分自身を本当に大切にする事なのだと思います。
 自分のことが大切だからということで、自分を中心にして、その自分を装飾し、あるいは粉飾し(笑)、そうして自分を大切にしようとするのは、本当は裸の自分に自信がないからなのではないか、と思います。どこかありのままの自分に自信がなく、あるいはありのままの自分を否定して、ときに拒絶しているから、それを飾らなければいられなくなってしまう。それが自分を大切にしていることだと錯覚している。それが罪に縛られていることなのだと思います。
 神さまは裸の、すなわち何もできない自分、失敗だらけの自分を、掛け値なしで愛していてくださるのです。イエスさまにあって神さまを信じているという信仰は、この愛をいただいて生きるということです。ですからもう自分自身を粉飾する必要がないのです。自分を着飾る生き方から解放されたのです。
 博士たちは、喜んで「宝の箱を開けて」献げたのだと思います。もうこれ以上旅を続ける必要がない、ここに救いがある、このお方が救い主である、と喜びを持って献げたのだと思います。そのような彼らに、神さまの御声はさやかに聞こえてきます。「彼らは夢で、ヘロデのところへ戻らないようにと警告されたので・・・」。

 彼らは、献げものをすると「自分の国に帰って行った」と聖書は語ります。自分の国。それははやり異郷の地であり、また彼らが星占い師であることをよく知っている人たちのいるところです。そこに帰って行ったのです。あるいは遣わされて行ったといってもよいのかもしれません。まことの神さまを証しするために。

 今日は元旦礼拝。早朝礼拝と教会学校はお休みです。昨年は年末年始に雪が降ったような記憶がありますが、今年は穏やかな元旦を迎えています。これからも寒さは進みますが、しかし冬至を過ぎて日差しに少しずつ力が出てくるような気がします。平安と感謝に満ちた朝を迎えることが出来ました。
 新しい年の教会のテーマは、伝道です。マタイ5章9節から「平和をつくる者」とのお言葉をいただいて新しい年を出発します。イエスさまは、平和を味わう者は幸いである、と言われたのではなく、平和を「つくる」者は幸いである、と言われました。平和の君であるイエスさまを宣べ伝えた使徒たちは、平和の使者だったと思います。平和の使者である彼らは、平和を味わうどころか戦いの中に伝道の生涯を送り、多くの者は殉教の死を迎えました。しかしそれこそ平和をつくる者だったのだと思います。彼らはどんな嵐の中にも、イエスさまがともにいて下さることを信じ、平安を見失うことなく、平和をつくるために自らをささげていったのだと思います。自己中心の心で平和を味わおうとするとき、私たちは平和ではなく戦いを生み出します。しかし平和は、平和をつくるために重荷を担おうとする者によって築かれて行くのです。私たちは大それたことはできませんが、しかし神さまから委ねられている小さな世界において平和をつくるために、自らをお献げしていく者でありたいと思います。
 穏やかな朝。良い礼拝の一日をいただき新しい年に出発していきたいと思います。感謝。

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