すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らした

静まりの時 2022年12月23日(金)
ルカ2・8~21

さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
(ルカ2・8,9)

 その日も、いつものように羊飼いたちは野宿で夜番をしています。そのとき「主の天使が彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らした」と聖書は語ります。
 主の使いはどのような時に、どのようなところに、どのような状況の中にやって来るのでしょうか。主の栄光に照らされる、というのは、いったいどのような時に起こることなのでしょうか。私たちはそのような神秘的な体験を求めて特別な中に自らを置こうとするのかもしれません。しかし聖書は、この羊飼いたちのように、日常の業務の中に、日々の同じことの繰り返しの中に、神さまは来て下さり、ご自身の栄光で照らしてくださる、それが真実の神であると語ります。

 羊飼いたちは恐れました。しかし天使は語ります。「恐れることはありません」。そして救い主イエスさまのお誕生の知らせが語られました。天使は「この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます」と語りました。「この民全体」。イスラエル全体への知らせが、この羊飼いたちに告げられた、ということです。そしてそれは、全人類の救いの知らせでもありました。神さまは、全人類へのご自身からのメッセージを、時の王でも、大祭司でもなく、この日も羊の夜番に従事する普通の人びとに託されたのです。彼らはこの知らせを全世界に向かって語る使命をいただきました。
 使命をいただいた彼らは、急いでベツレヘムに向かいます。そしてマリア、ヨセフ、飼い葉おけのイエスさまを捜し当てました。幼な子について天使から告げられたことを知らせます。これを聞いた人びとは驚きました。一方マリアは、すべてを心に納めて、思い巡らします。羊飼いたちは、すべて御使いの話の通りだったので、神さまをあがめ、賛美しながら、またもとの羊飼いの夜番に戻りました。現在、私たちはこの羊飼いたちに告げられた「大きな喜び」を聞く者としていただいています。

今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。(11,12)

 天使の言葉は不思議に満ちています。「布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりご」が
「あなたがたのためのしるし」である、と語るのです。「しるし」とは、奇跡のことです。おおよそ人間の常識では考えることのできない出来事、救いを求める私たちにとっては、鮮やかな不思議な出来事、病の苦しみの中にある者にとっては癒しであり、問題の中にあるものにとっては、その解決、経済的な行き詰まりの中にある者にとっては豊かさでしょう。しかしこの飼葉桶に寝かされている、あるいは寝かされているしかない幼な子、この幼な子こそ「しるし」である、と聖書は語るのです。
 「しるし」ですから、サイン、何かを指し示しているもの、でもあります。例えば信号機は止まれ、あるいは進めを指し示しています。山道での標識は、山頂を指し示しているのでしょう。それ自体に意味があるというよりも、何か伝えなければならないことがあって、それを「指さしている」ということでしょう。布にくるまって飼葉桶にねているみどりご」が「しるし」である、ということは、このお姿が指し示しているものに目を向けなければなりません。「この方こそ主キリスト」である、「民全体に与えられる大きな喜び」、と天使は語るのですから、私たちは幼な子の中に、救いと喜びを発見しなければなりません。クリスマスは、この世から見れば、見過ごしてしまうような小さく弱いお姿で来てくださった神さまにお出会いするときです。そしてそこにこそ私たちの救いと喜びのしるしを見出すのです。

すると突然、その御使いと一緒におびただしい数の天の軍勢が現れて、神を賛美した。
「いと高き所で、栄光が神にあるように。
 地の上で、平和が
 みこころにかなう人々にあるように。」(13,14)

 グローリア、インエクセルシス、デオ。これはラテン語からの言葉ですが、クリスマスの歌われる賛美歌に引用されています。いと高き所には栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ。ちょっとわかりずらい文章ですが、原文がこの通りなので仕方がないのでしょう。「みこころにかなう人々」とは、すべての人のことです。しかし聖餐式の時に聖餐にあずかるふさわしさ、を、自らをふさわしくないと悔い改める者こそふさわしいのである、と確認するように、ここでも、自分などみこころに適うような者ではないという悔い改めの中にある者こそ、みこころに適う人である、ということでしょう。

八日が満ちて幼子に割礼を施す日となり、幼子の名はイエスとつけられた。胎内に宿る前に御使いがつけた名である。(21)。

 イエスさまのお名前は、「胎内に宿る前に御使いがつけた名」であると聖書は語ります。人間のすべての事情を超えて神さまがお付けくださった名、それが「イエス」である、というのです。ですから私たちは祈りの時にこの名によって祈ります。救いはこの名に懸かっているのです。

それゆえ神は、この方を高く上げて、
すべての名にまさる名を与えられました。(ピリピ2・9)