静まりの時 2022年12月24日(土)
ルカ2・22~38
そして、モーセの律法による彼らのきよめの期間が満ちたとき、両親は幼子をエルサレムに連れて行った。それは、主の律法に「最初に胎を開く男子はみな、主のために聖別された者と呼ばれる」と書いてあるとおり、幼子を主に献げるためであった。また、主の律法に「山鳩一つがい、あるいは家鳩のひな二羽」と言われていることにしたがって、いけにえを献げるためであった。
(ルカ2・22~24)
「彼らのきよめの期間」というのは、母マリアの出産後の自宅待機の時間が終わった、ということでしょう(レビ記12・2~)。献げものとしてレビ記に記されているのは、まずは子羊1頭ということですが、彼らが山鳩を献げているということは、「羊を買う余裕がない」(レビ記12・8)状況であったということが想像されます。イエスさまがお育ちになられた家庭は貧しかったのです。
しかしユダヤのどこの家庭も行っていたことを、この夫婦も行おうとします。それがエルサレムに行っていけにえを献げるということでした。これは、イエスさまが、ユダヤ人としてこの世に降ってきてくださったことを明らかにしています。神が人となられた、ということは、具体的な人、となられたということでしょう。
今日日本では懐妊すると手続きを経て母子手帳をいただきます。生まれてくると、出生届をします。住民票に記載され、国籍をいただき、この世で生きる道が進んでいきます。イエスさまも、そういう手続きを経ていかれた、ということでしょう。まことの人となられたということは、そういうことも経験してくださったということでしょう。
この後、30年と想像されますが、ヨセフ、マリア夫婦のもとに成長していかれました。まもなく弟や妹たちも生まれます。長男として、ヨセフの手伝いをし仕事を覚えていかれます。おそらくはやくに亡くなったであろうヨセフ。ひとり身となった母マリアを助けて、弟や妹たちを養っていかれたのだと思います。
イエスさまは、公生涯に入るとき、バプテスマのヨハネから洗礼を受けられました。そのときバプテスマのヨハネは、イエスさまに洗礼を授けることを拒もうとします。しかしイエスさまは言われました。
しかし、イエスは答えられた。「今はそうさせてほしい。このようにして正しいことをすべて実現することが、わたしたちにはふさわしいのです。」そこでヨハネは言われたとおりにした。
(マタイ3・15)
イエスさまは、まことの人としてこの地を歩んでくださいました。それは、私たち地を生きる者と神は共にいる、ということが明らかにされたということでしょう。この世に生きるということには、ときに煩わしく思えることもつきまといます。しかしそのような中にも誠実に生きることは、信仰に生きる者として大切な生き方であると聖書は語っているのかもしれません。