静まりの時 2022年12月22日(木)
ルカ2・1~7
ところが、彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて、男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。
(ルカ2・6,7)
「ところが」。意に反して、予想していないこと、計画ではないことが起こった、それが御子イエスさまのお生まれであった、と聖書は語ります。マリアとヨセフにとって、計画ではないことが起こってしまった、ということだと思いますが、おおよそ人間の意に反して起こった出来事、それが主イエスさまのお誕生であった、と聖書は語るのではないでしょうか。
神さまの救いのみわざは、私たちの計画を超えているのです。私たちの意に反することの中に、神さまの愛のお働きは前進するのです。だいたい自分の思い通りにことが進むということであるならば、神さまはいらないこととなってしまいます。
「月が満ちて」。満ちる、という言葉は、いっぱいになる、という言葉です。文字通り臨月を迎えていたマリアは、出産の時を迎えたということですが、他の箇所では「成就する」という意味で使われている言葉です(ルカ21・22)。マリアの出産は、神さまのときであり、神さまのみわざが成就したとき、ということでしょう。御子イエスさまのお誕生は、グッドタイミングであると同時に、何一つ不足のない完全な神さまのみわざであった、ということです。
そのグッドタイミングで何一つ不足のない神さまのみわざが成就したにしては、続く言葉は不思議です。「布にくるんで飼葉桶に寝かせた」「宿屋には彼らのいる場所がなかったからである」。飼葉桶、という言葉から、イエスさまは、食べられるお方としてこの地に来られたのだと語る説教もありました。宿屋という言葉は、マルコでは、過越の食事をした場所、すなわち最後の晩餐の場所を表す言葉として記しています(マルコ14・14)。語源の動詞には、停止する、休む、立ち寄る、宿をとる、客になる、という意味があります。時満ちて神の子が、私たちの世界にやって来られたとき、私たちには、その神の子に休んでいただく、すなわち神さまをお迎えして、ともに憩うための「場所」がなかった、ということを聖書は語るのでしょう。
そもそも神さまが世界を創造された時、第七日目を安息とされました。それは創造の目的が、被造物とともに、そして被造物の冠である人間と共に、憩いの時を過ごすためでした。神さまに造られた者は、神さまとともに憩うことなくして、まことの平安をいただくことができないのです。人間は罪を犯して(創世記3章)以来、この憩いを探し求めています。しかし私たちの世界には、どこを探しても神さまをお迎えするところがないのです。それが私たちの現実であり、罪そのものなのです。
そのような「世」にイエスさまはいらしてくださいました。それは世を愛されたからです(ヨハネ3・16)。御子を世に与えるほどに愛していてくださる。それが神さまなのです。
イエスさまは、この世に自らが憩う場所がないからといって、来ることをお止めにはなりませんでした。自らが憩う場所のないことを十分にご存じの上で、この世に来てくださったのです。まことに小さな弱い存在として来てくださったのです。人の世話にならなければ生きることのできないような赤子の姿で来てくださったのです。人の奉仕を受けることを前提として、この地に来られたのです。この幼な子として来てくださった、ということ自体に神さまの深いあわれみと愛が満ちているように思います。ありがたいことです。
昨日はキャンドル・サービスが行なわれました。寒い夜でしたが、キャンドルの明かりのもと、聖書朗読、クリスマス聖歌の賛美、聖書のお話、祈り、の時を持ちました。幸いな時でした。準備されたシュトーレンは、4枚入りとのこと。クリスマス礼拝の25日まで少しづついただきながら、御子イエスさまのお生まれの喜びを味わいたいと思いました。ご準備くださいました皆さんに、感謝します。