静まりの時 2022年12月21日(水)
ルカ1・67~80
これは私たちの神の深いあわれみによる。
そのあわれみにより、
曙の光が、いと高き所から私たちに訪れ、
暗闇と死の陰に住んでいた者たちを照らし、
私たちの足を平和の道に導く。
(ルカ1・78~79)
さて、父親のザカリヤは聖霊に満たされて預言した。
「ほむべきかな、イスラエルの神、主。
(67,68)
ザカリヤが幼子の割礼の日に、幼な子の名はヨハネとしなければならない、と書き板に書くとただちにザカリヤの口が開かれました。ものが言えるようになったザカリヤが最初に語った言葉は神さまへの賛美でした(64)。
この「ほむべきかな」(68)は、「良い言葉」という意味を持っています。神さまに向かって賛美を献げる、ということは、神さまに向かって良い言葉を語る、ということです。この賛美はラテン語では「ベネディクトゥス」という単語で始まります。ザカリヤの賛歌をベネディクトゥスというのは、この賛歌の最初の単語がこの言葉だからです。
ザカリヤは、幼な子ヨハネの誕生を喜び神さまをほめたたえました。その内容は、神さまは、私たちを顧みて下さって、贖い、すなわち奴隷状態から解放してくださった、それはいにしえからの預言のとおりである、この救いは、敵の手からの救いである、そうして救い出された私たちは、恐れることなく、敬虔に、正しく、主に仕える者としていただける。こうして暗闇の死の陰に住んでいた私たち、そしてすべての民に、曙の光がやって来た、いと高き所からやって来た、私たちはまことの平和の道に導かれる、というものでした。
自分たちは、解放していただかなければならない奴隷の状態の中にある、とザカリヤは告白しました。敵というのは、自分たちを縛っていたもの、ということでしょう。それは何よりも私たちの内にある罪のことだと思います。罪の中にある、ということは、暗闇と死の陰に住んでいる、ということなのです。具体的な道徳や倫理に違反すること、愛すべき隣人を愛せないこと、自らを大切に生きることが出来ないこと、そういう罪も見逃すことのできないものです。しかしそれらの根底にあるもの、それは人間中心主義、神さまを知らずに生きてしまう、という問題、それこそ私たちが知らなければならない罪なのだと思います。
そのような私たちを救いたいと、神さまは願われました。「曙の光」が「いと高き所から」「私たちに訪れ」、私たちを「照らし」、私たちの足を「平和の道に導」くのです。クリスマスの喜びは、この私たちに訪れた曙の光との出会いの時、です。
曙、とは、朝日のことでしょうか。文語訳では、朝(あした)の光、とありました。原文のギリシャ語では「アナトレー」。これは「東」という意味を持っています。アナトールなんとか、という名前はここから生まれているのでしょうか。伝統的な教会堂の中には、東向きに建てられているものも多いようです。
暗闇の人生にまことの光がやって来て新しく生きる、ということは、罪が赦される、まことの平和の道に歩むようになる、ということです。それはまた「私たちのすべての日々において 主の御前で、敬虔に、 正しく」「恐れなく主に仕えるようにしてくださる」ということでもあります。
それまでは、主に仕えるに際して、恐れがあった、恐怖があった、ということです。しかし救いをいただいた、ということは、恐れなく、敬虔に、正しく生きる者としていただいたということなのです。罪の暗やみの中にあるということは、主に仕えない、ということではなく、主に仕えてはいるように見えるのですが、そこに主への恐怖があった、ということなのです。救われるということは、恐怖から解放されて主に仕える者としていただいた、ということなのです。救いというのは、このようにいたずらな恐怖心から解放される、ということなのです。
多くの宗教は、どこか神へ恐怖心によって信仰をかきたてるところがあるのかもしれません。しかしキリスト教は、恐れから解放される信仰なのです。全き愛は恐れを締め出すのです(第一ヨハネ4章18節)。
こうして救われた者は、神さまとの平和をいただきました(エペソ2章14節~)。神さまとの平和をいただいた者は、平和の使者としてこの世界に遣わされていきます。神様との間に平和をいただき、そうして自分自身との間に平和をいただき、世界の平和のために遣わされていきます。
自分自身との平和をいただく。それは自分との戦争状態に終りがもたらされるということです。自分の中の嫌な部分、受け入れられないところ、否定したいことなど、誰しも持っているでしょう。しかしそのような自分のなかの否定的なところも、自分自身です。それらとの間に戦争状態がある限り、隣人との間に平和を築くことが出来ません。自分の中の弱いところ、恥ずかしいところ、消してしまいたい過去など、それらと和解しましょう。受け入れてあげましょう。世界にたった一人しかいない「私」という存在を、私自身が愛さずしていったい誰が愛してくれるでしょう。自分も愛想をつかしてしまった者を誰が愛してくれるでしょう。自分だけは、自分を愛してあげましょう。
そのために、実は、神さまが愛して下さっているのだ、という現実に出会う必要があります。私さえも愛想をつかしてしまいそうな私を、神さまは愛想をつかすことなく、それどころか自らのいのちを捨てて愛を明らかにしてくださったのです。この神さまの愛に出会う、ということが、キリスト教信仰に生きるということなのです。そうして神さまからの和解の言葉を受け入れ神さまと和解し、自分自身と和解し、平和の使者となるのです。ちょっとややこしいことですが、こういうことなのですね。なんとすばらしい信仰だろうか、といまさらながら嬉しくなります。
今日はキャンドルサービスを行います。ライブ配信も予定しています。教会のWEBサイトからご視聴くだされば幸いです。シュトーレンのプレゼントもあるようですよ。