母親は「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と言った

静まりの時 2022年12月20日(火)
ルカ1・57~66

八日目になり、人々は幼子に割礼を施すためにやって来た。彼らは幼子を父の名にちなんでザカリヤと名づけようとしたが、母親は「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と言った。
(ルカ1・59~60)

「さて、月が満ちて、エリサベツは男の子を産んだ。近所の人たちや親族は、主がエリサベツに大きなあわれみをかけてくださったことを聞いて、彼女とともに喜んだ。」(57,58)

 この「主がエリサベツに大きなあわれみをかけてくださった」の中の「大きな」という言葉は、昨日読んだマリアの賛歌の「マニフィカト」と同じ言葉です。神さまの憐れみの大きさ、慈しみの大きさ、愛の大きさを、人びとはエリサベツの出産に発見し、ともに喜びます。まずはザカリヤとエリサベツ夫妻の喜びなのだと思います。しかしこの老夫婦に起こった喜びの出来事を見た人たちは、またともに喜ぶのです。共に喜ぶ、一緒に喜ぶ、クリスマスの喜びの一つなのだと思います。
 八日目の割礼を施す日に、命名式も行うということなのでしょう。人びとは父親の名にちなんでザカリヤと名づけようとします。そこで小さな事件が起こります。

「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」(60)。

 「母親」。もちろんエリサベツのことです。しかし聖書はわざわざ「母親」と記します。母は強し! ということでしょうか。私たちはこのエリサベツの言葉から、ザカリヤに天使が現れてから出産までの期間、その彼らの日常を想像することが出来るのではないでしょうか。
 ザカリヤは口がきけません。自らの天使との出会い、そこで語られた神さまの言葉を、妻エリサベツに直接語ることが出来ません。身振り手振りを交えて、また書き板を使いながら一所懸命に説明したことでしょう。子どもの名前は、ヨハネ、とつけるのだ、と。親せきは慣例に従って私の名ザカリヤとつけようとするかもしれない。その時しっかりと言ってほしい。私はこのように口がきけない。誰も私の意見など聞かないだろう。人びとは勝手に決めてしまうかもしれない。その時は勇気を出して、しっかりと「ヨハネ」と言い張ってほしい。ことは神さまの約束に関わることなのだ。神さまは、この子を私たちに託してくださった。その命名の時に躓いてはいけない。神さまのみわざの出発の時を、私たち老夫婦、口がきけない夫と出産時期を大きく過ぎている妻に託されたのだ、と。
 エリサベツのほうは、ただでさえつわりでしんどい中に、夫のザカリヤが不思議なことを言いはるのです。この人はなにをわけのわからんことをゆうてはんにゃ~、こっちはしんどいんやからごちゃごちゃいうてんとちょっとだまっといて~、ということにはならず、最初は不思議に思い半信半疑だったかもしれませんが、信じ受け止めようとしていったのです。
 出産の時を無事に終えいよいよ名前を付ける時。エリサベツは多くの人びとに逆らって一人語ります。「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」。

 クリスマスは幼な子の母マリアの信仰とともに、もう一人の母エリサベツの信仰が語られています。高齢出産のリスクを引き受け夫への信頼に生き続けた一人の母の物語でもあるのです。