力ある方が、 私に大きなことをしてくださったからです

静まりの時 2022年12月19日(月)
ルカ1・46~55

マリアは言った。
「私のたましいは主をあがめ、
 私の霊は私の救い主である神をたたえます。
 この卑しいはしために
 目を留めてくださったからです。
 ご覧ください。今から後、どの時代の人々も
 私を幸いな者と呼ぶでしょう。
 力ある方が、
 私に大きなことをしてくださったからです。・・・
(ルカ1・46~)

 マリアの賛歌。「マニフィカト」(マグニフィカト)と呼ばれる賛歌ですが、それは原文の最初の言葉が「メガレーネイ」(ギリシャ語、ラテン語では「マグニフィカト」)という言葉で始まるからで、この単語は単純に「大きくする」という意味の言葉です。メガマックとかメガなんとかという言葉がありますが、それは大きいという意味で使われているのだと思いますが、その「メガ・・・」ですね。
 マリアは天使のお告げを受けて神さまに賛美の歌を献げました。その冒頭の言葉が、「大きい」です。私のたましいは神さまを大きくします、とマリアは歌うのです。おおよそ賛美というのは、神さまを大きくするということなのだと思います。

「この卑しいはしために 目を留めてくださったからです」。

 マリアは、神さまは私のような卑しいもの、女奴隷のようなものに目を留めて下さった、何と幸いなことだろう、と歌います。天と地を創られた神さまが、この私に目を留めて下さったとの喜び。それは自らがどんなに卑しく小さな存在であるのかを知れば知るほどに、大きくなることでしょう。信仰の喜びは、自らの小ささへの認識と反比例します。自らの卑しさを学べば学ぶほどに、神さまの愛の深さが深まり、神さまの愛の大きさが大きくなるのです。
 ただ順序としては、自らの小ささを学ぶことによって、神さまの大きさが分かる、という順序とは少し違って、マリアの経験としては、いきなり天使がやって来たのですから、まず神さまの大きさに出会いました。そしてその恵みの大きさに出会ったとき、自らの小ささが理解できるようになった、それで神さまの愛の大きさを味わうこととなった、という三段階です。つまり私たちは、自らの小ささを自力で知ることはできないのですが、神さまがそれを分かるようにしてくださる、そして自らの信仰の歩みがそれを深めていく道を作るということです。。

 さらにマリアは

「力ある方が、私に大きなことをしてくださったからです」。

 と歌います。この時点で、いったい神さまはマリアにどんな大きなことをして下さったのでしょう。すでにマリアの胎に小さないのちが生まれたということでしょうか。それもあるでしょう。自らの身体の小さな変化に、大きな神さまの御業を自覚したのかもしれません。
 しかしそれ以外にもいくつもの神さまが成してくださった大きなことを数えても良いのではないでしょうか。たとえば、天使のお告げの前に自らがへりくだりそれを受け入れたこと(38節)、急いでエリサベツのところに向かったこと(39節以降)、そこでエリサベツから語られたことやエリサベツのお腹の赤ちゃんの反応、などなど。一口には言えない「大きなこと」をマリアは経験しているのだと思います。
 ただその「大きなこと」も、世界から見ればほんの些細なこと、目に見えないこと、神による懐妊なので確かにそれ自体は大きなことであるはずですが、しかし世界はそれを知る由もありません。たいそう小さなことのように思えてきます。しかしマリアはそれを「大きなこと」と歌ったのではないでしょうか。
 なぜマリアはここで神さまは大きなことをして下さったと歌うことが出来たのか。それはまず自らが神さまを「大きくした」からではないかと思います。神さまを大きくする人は、小さなことごとに神さまの大きな御業を発見することが出来るのだと思います。

 昨日は、子どもたちとともにイエスさまのご降誕をお祝いする時を持ちました。思いがけず多くの子どもたちが集まってくれて感謝でした。みんなで観た映画に終りの方では不覚にもちょっと涙がこぼれてしまいました。手作りプレゼントも好評でした。合間に開かれたスタッフ会も楽しい時でした。子どもたちの祝福を祈ります。またあいにく参加できなかった子どもたちの上にも祝福があるように祈ります。

 ところで「復生記念館」というのは、日本で最初にらいへの取り組みが行なわれた場所ということで、岩下壮一というカトリックの司祭が深く関わったところです。秋の旅で訪れることが出来ました。あいにく休館中で外側から写真を撮影しただけでしたが、写真をもとにスケッチしてみました。その時の研修で宿泊した場所もこの神父さん一族が深く関わった場所でした。