静まりの時 2022年11月24日(木)
ヨナ4・1~11
主は言われた。
「あなたは、自分で労さず、育てもせず、一夜で生えて一夜で滅びたこの唐胡麻を惜しんでいる。ましてわたしは、この大きな都ニネベを惜しまないでいられるだろうか。そこには、右も左も分からない十二万人以上の人間と、数多くの家畜がいるではないか。」
(ヨナ4・10,11)
小預言書の中のヨナ書は、神さまからの預言の言葉というよりも、預言者ヨナの不思議な体験が記されている書物です。神さまの言葉を語ることを避けて逃げ出してしまうヨナを、神さまは大きな魚を用意し、その魚にヨナを飲み込ませられ、預言者としての働きを全うさせる、というような内容です。
ヨナが神さまの言葉を大きな町ニネベに伝えることから逃げ出した理由は、ヨナ自身が次のように語っています。
「ああ、主よ。私がまだ国にいたときに、このことを申し上げたではありませんか。それで、私は初めタルシシュへ逃れようとしたのです。あなたが情け深くあわれみ深い神であり、怒るのに遅く、恵み豊かで、わざわいを思い直される方であることを知っていたからです。ですから、主よ、どうか今、私のいのちを取ってください。私は生きているより死んだほうがましです。」(4・1~3)
つまり宣教に立つことを恐れていたわけではなく、神さまが「情け深くあわれみ深い神であり、怒るのに遅く、恵み豊かで、わざわいを思い直される方であることを知っていたから」、自分が宣教したことによってニネベの町が悔い改めてしまい、それによってニネベの町が神さまの審きから逃れてしまう、ということが起こると困る、それが嫌だったから、なのですね。面白い預言者です。異教の町ニネベへの愛はまったくありません。あのような町は滅んだほうがよい、と確信している預言者です。
大切なポイントは、そのような預言者ヨナを、神さまは預言者として召され、ご自身の御言葉の宣教のために用いられた、ということ。そしてそのようなヨナの、愛なくして語られた言葉、半ば憎しみを抱いて語られた神さまの言葉、によってニネベの町が悔い改めたこと。語り手である預言者の愛のなさを超えて、神さまの言葉が力強く働いている、ということです。
私たちは、もちろん愛をもって神さまの言葉を語る者でありたいと思います。しかし神さまの言葉は、私たちが愛をもって語ったから力が発揮され、そうでなかったら力がない、などという私たちの能力によって左右されるような、ただの道具、といったようなものではありません。神さまのお言葉にはそれ自体に、人を悔い改めに導く力があふれているのです。ですからどのような中に語られたとしても、その力を発揮するのです。
ですから、逆に語る時も注意が必要です。御言葉は「両刃の剣」なのです(「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。」(ヘブル4・12))。私の思いを超えて、働いてしまうことがあります。励まそうと思って語った言葉によって、傷つけてしまう、ということも起こるのです。
主は言われた。
「あなたは当然であるかのように怒るのか。」(4・4)
ヨナは神さまがニネベの町への審きをストップされたことを知り怒ります。神さまは怒りをあらわにするヨナに、優しく語りかけられました。
人間は神さまによって喜怒哀楽を持つ存在として創造されました。喜怒哀楽の感情は神さまによって造られた大切なもの、すばらしいものです。喜びや悲しみ、楽しみを持つ、ということは人生においてすばらしいことです。時に怒りということも、大切な働きをします。不正に対する怒り、危険な行為に対する怒りは、よりよい社会のために必要なことです。
しかし怒りは、少し厄介な、あるいは危険をはらんでいる感情であることは確かでしょう。短気は損気といいます。短気を起こしての言動があとあとさまざまな問題を生み出した、ということは多いのではないでしょうか。アンガーマネジメントの本が読まれて、そのためのセミナーが開催される、ということも、そのようなことが背景にあるのだと思います。
怒りを支えているのは正義感です。自分は正しい、自分には義がある、との思いでしょう。「義憤」という言葉もあります。義のために怒る、ということです。しかし義の内容はともかく、怒る人、というのは大なり小なり自分の中に義を持っているでしょう。そういうことではすべてが「義憤」ということもできるのではないかと思います。
このヨナも自分の「義」がありました。神さまの御言葉をニネベに語れば、あわれみ深い神さまは、ニネベの町への審きをやめてしまわれる、そんなことが起これば、異教の町が審かれない、というようなことが起こる、そうなれば、神の国イスラエルに向けられた神さまの愛が、流出してしまう。私たちがひとり占めにしていた神さまの愛を、あの異邦人たちも受け取ってしまう、そんな不正義なことがあって良いだろうか、と。それがヨナの義だったのでしょう。それがヨナの不機嫌、怒りを生み出したのでしょう。「死んだほうがましだ」と思うほどに守らなければならない義だったのでしょう。しかし私たちは少なからず首をかしげる義です。
怒る時、私たちもそれが「当然であるかのように」怒ります。客観的に考えれば、義が本当にあるのかどうか、多少不明な時でも、怒りは、ドーパミンが多量に分泌されるからか、怒りに拍車がかかり「当然であるかのように」怒るのです。快感さえ持っているかのように、怒りに打ち震える、というようなことが起こるのです。
怒りに打ち震える時にこそ、私たちはこの優しく、また柔和に、柔らかく語られる神さまの言葉を聞かなければなりません。あなたは当然のように怒っているけれども、それは本当に当然のように怒ることなのか、当然のように怒っているあなたは何様なのだ、神さまにでもなったつもりか、と、自らに語られる神さまの言葉を聞かなければなりません。自分の中に義がある、自分こそ義だ、というその義そのものを問いかけなければなりません。自分が握りしめている義を客観視し、神さまの前に眺めてみる必要があります。それが果たして本当に義なのか。単に自分のプライドが傷つけられたことに怒りを抱いているだけなのではないか。もしそうだとすれば、それは実りある人生を築くことではないのではないか。イエスさまを信じたということは、自らのプライドなど十字架の上に釘づけたのですから、吹けば飛ぶような自らのプライドにしがみついている姿はまことにあわれです。
ましてわたしは、この大きな都ニネベを惜しまないでいられるだろうか。(4・10)
神さまの豊かなあわれみの心が私たちに注がれていることに感謝します。今日も喜びと感謝をもって過ごしたいと思います。
昨日は、他教会の関係ですが、小さなコンサートがあって、妻の付き添いで参加してきました。雨と雷のなか、ジョン・W・ピーターソン作曲のイースターカンタータというのが歌われました。その教会の牧師先生もナレーション(レチタティーヴォ?)で参加されると伺っていましたが、体調の問題で参加されていませんでした。ちょっと残念でしたが、合唱団の歌声は清楚で力強く、主イエスさまの愛が会場に響いていました。
私たちは礼拝において使徒信条で「公同の教会を信ず」と告白します。これは、私たちの教会こそ正しい教会である、という呪縛から私たちを解放し、さまざまな違いを超えて教会がともに宣教協力をして行く道をひらきます。この宣教協力においては、共通の部分を確認することとともに、互いの違いを尊重する、ということはとても大切なことです。昨日出席したコンサートの関係の教会は団体内の教会なので、教理的な違いは全くありませんので、気遣いはほぼいりません。しかし他団体や、文化の違いの中にある教会、教理的に特殊な考えを持っている教会には少なからず気を遣います。違いがあるからといって、私の考え、私の教会の立場を振りかざして、出しゃばって物申す、などということは、間違ってもしてはいけないことですし、しないことです。あるいは結果的にそのように受け取られるような言動は避けなければなりません。李下に冠を正さずです。ところが先日の礼拝でも少し話してしまいましたが、案外自分の教会こそ正しいと思っておられるのか、教会宛に手紙まで送って来られ、自分の考えを主張したりする教会があります。この「公同の教会を信ず」という信仰告白がなされていないということなのかと少し疑問を持つことになってしまいます。