静まりの時 2022年11月25日(金)
ハバクク2・1~4
1 私は、自分の物見のやぐらに立ち、
砦にしかと立って見張り、
私の訴えについて、主が私に何を語られるか、
私がそれにどう応じるべきかを見よう。
2 主は私に答えられた。
「幻を板の上に書き記して、確認せよ。
これを読む者が急使として走るために。
3 この幻は、定めの時について証言し、
終わりについて告げ、偽ってはいない。
もし遅くなっても、それを待て。
必ず来る。遅れることはない。
4 見よ。彼の心はうぬぼれていて直ぐでない。
しかし、正しい人はその信仰によって生きる。」
(ハバクク2・1~4)
共同訳2018では
◆主からの答え
1 私は見張り場につき
砦の上に立って見張りをしよう。
主が私に何を語り
私の訴えに何と答えられるかを見よう。
2 主は私に答えられた。
「この幻を書き記せ。
一目で分かるように板の上にはっきりと記せ。
3 この幻は、なお、定めの時のため
終わりの時について告げるもので
人を欺くことはない。
たとえ、遅くなっても待ち望め。
それは必ず来る。遅れることはない。
4 見よ、高慢な者を。
その心は正しくない。
しかし、正しき人はその信仰によって生きる。」
(ハバクク2・1~4 共同訳2018)
ハバクク書は、預言者ハバククの主に向かっての訴えとそれに対する主からの答え、そして最後にハバククの祈り、という構成になっています。すべて詩文で、最後の文章に「指揮者のために(によって)、弦楽器に合わせて」とありますので、歌われてきた文章なのだと思います。
今朝のところは、1章12節~17節に語られたハバククの訴えに対する神さまからの答えの冒頭の部分です。
「しかし、正しい人はその信仰によって生きる」(4)は、ローマ人への手紙1章17節に引用されている言葉です。義人は信仰によって生きる、あるいは、信仰による義人は生きる、と義認信仰が語られるために引用された聖句です。
信仰によって生きる。それが正しい人間、健やかな人間である。本来神さまによって造られた存在として生きる生き方である、信仰がなければ、人間本来の生き方ができない、というのです。
この言葉に先立って書かれている言葉は、「見よ。彼の心はうぬぼれていて直ぐでない」。共同訳2018では「見よ、高慢な者を。その心は正しくない」。人間として正しくない、健やかでない状態というのは、ひとえに「高慢」である、というのです。これは新改訳2017では「うぬぼれていて」と訳しています。欄外注をみると、直訳として「たましいは自らのうちでふくれ上がり」と記されています。自己が肥大化しているのです。
自分が肥大化している。ときに神さまよりも大きくなっている。それが人間の問題なのです。信仰に生きる、ということは、これの逆の状態になる、ということでしょう。自分を低くする、へりくだる、自己が小さくなる、それが信仰に生きる、ということだ、というのでしょう。
健やかな礼拝を献げるために人間が小さくなる工夫として説教台と聖餐卓をそれぞれ中心から少しずらし、司会者台を説教台と別にしようと考えていますが、司会者台に感染症対策としてスクリーンを設置してみました。感染症の一日も早い終息と苦しみの中にある方々のために、医療従事者、為政者の方々のために祈ります。
牧師館の庭で収穫できたゆずと、いただきもののフェイジョアとの記念撮影です。