静まりの時 2022年11月23日(水)
イザヤ28・17~22
わたしは公正を測り縄とし、
義を重りとする。
雹はまやかしの避け所を一掃し、
水は隠れ家を押し流す。
(イザヤ28・17)
この「義を重りとする」という言葉ですが、「重り」とは計量器の分銅のことです。分銅が「義」すなわち、正義、正確、正しいものでなければならないのですが、神さまこそまことに正しい分銅を持っておられる、正しい分銅で計量してくださるのは神さまご自身である、ということです。
神さまを信じるということは、このような「正義の神」を信じる、ということです。それは信じる者に正しい生き方を実現するということだと思いますが、信じる者が正しい者となるということとは少し違います。イエスさまの時代の律法学者やパリサイ人は、ここで失敗しているのだと思います。
キリスト者も、自分こそ正しいとして他者をさばくことがあるとすれば、イエスさまの時代の律法学者やパリサイ人と同じことでしょう。キリスト者というのは、自分こそ罪びとである、ということを受け入れた人のことです。自分ではどうすることもできない罪びとである私のために、神さまが十字架にいのちをささげてくださったことを信じる者です。そこで見出したことは、自分の罪とは、神さまのいのちをもってしかあがなうことが出来ないほど大きなものであったこと、そして、神さまはご自分のいのちを捨ててまで、その罪びとである私を救いたいと思って下さったこと、この二つのことを見出したのです。イエスさまの十字架は、神さまの義と愛が一つになったところなのです。ですからキリスト者であり続けるためには、自らが罪びとであることを学び続けなければなりません。告白し続けなければならないのです。これには卒業はありません。生涯にわたって深めていくことです。
自らが、罪びとの頭である、ということを告白し続ける者だけが、この自らの罪の大きさと神さまの愛の大きさ、という二つのことを知り続ける者となります。すなわち喜びと感謝をもって生きる、他者とともに生きる者となることができます。
神さまが十字架と復活を通して教えて下さったこととは、真実の義は愛である、真実の愛は義である、ということなのでしょう。このイザヤ書28章17節は新共同訳では以下のように訳されていました。
わたしは正義を測り縄とし
恵みの業を分銅とする。
雹は欺きという避け所を滅ぼし
水は隠れがを押し流す。
(新共同訳、イザヤ書28.17)
新改訳2017で「義」と訳されていた言葉は、新共同訳では「恵みの業」と訳されています。原文の単語は辞書には「義、正義、公義、正しさ、義の働き、正義の行為、義認、救い」と書かれていました。義が貫かれることこそ恵みである、ということなのですね。義のないところには、どんなに愛にあふれているように見えても、恵みはない、すなわちほんとうの愛ではない、ということでしょう。
昨日は、団体職員の年末調整関係、期末手当関係の書類作成と発送をしました。この時期に行う作業です。コンピュータで作成するので、手作業の負担はほとんどありません。エクセルのおかげです。コンピュータのない時代の作業は大変だっただろうな、と想像しつつ昔この役割を担っていてくださった方々に感謝しました。
私は、健康保険、年金保険、労働保険や税制の仕組みがよく分かっているわけではありません。いろいろと本を見ながら学ぶことになっていますし、分からないことは、すぐに関係機関に電話をして教えていただくことにしています。その都度、私たちの国はよくできているなと感心します。ありがたいことです。
牧師たちが健康に奉仕を続けることができるように、健康保険の関係で定期検診を受けるように案内していますが、忙しさもあってか徹底していません。私のように突然倒れることのないようにぜひ健診を受けていただきたいところです(ちなみに私はきちんと健診を受けていたのに発病しましたから、あまり説得力がありませんが・・・)。またこの4月から「パワハラ防止法」が中小企業でも施行されたこともあって、職員の精神的な健康のためにも祈っています。この件では東近江労働基準監督署に問い合わせることにもなりました。労災と認められるためには、かなり関係者(つまり信徒)に調査が入るそうで、簡単なことではないような感じがしましたが、対応してくださった職員の方は丁寧に考えてくださいました。
牧師たちの生活がこの社会にあって守られ、教会による福音宣教が前進しますように祈りつつ作業をする一日でした。