静まりの時 2022年11月22日(火)
イザヤ40・1~8
慰めよ、慰めよ、わたしの民を。
──あなたがたの神は仰せられる──
エルサレムに優しく語りかけよ。
これに呼びかけよ。
その苦役は終わり、その咎は償われている、と。
そのすべての罪に代えて、
二倍のものを主の手から受けている、と。
・・・
草はしおれ、花は散る。
しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ。(イザヤ40・1~2、8)
預言者イザヤは、神さまから「苦役は終わり、その咎は償われている」との言葉を託され、民に告げました。民の苦役の原因は、民の咎にありました。苦役によってその咎は償われている、と神さまは語られたのです。そしてすべての罪に代えて「二倍のもの」を主の手から受けていると重ねて語られました。「二倍のもの」。新共同訳では「倍する報い」と訳されていました。苦役によって罪と咎が償われただけではなく、その苦しみから祝福をいただいた、それは倍するものであった、ということでしょう。
「慰めよ」。70人訳聖書(ギリシャ語旧約聖書)では「パラカレオー」。辞書によると「(1)側へ呼ぶ、呼び寄せる、招く。(2)助けを求める、哀願する。(3)頼む、懇願する、願う。(4)呼びかける、勧める、勧告する、促す。(5)元気づける、慰める、励ます。(6)好意を以て話しかける、優しい言葉をかける、慰撫する、宥める」(岩隈直、『新約ギリシヤ語辞典』)。ちなみにこの言葉を語源とする言葉に「パラクレートス」というのがありますが、これは「援助者として呼ばれた者」という意味で「聖霊」(ヨハネ14・16)を意味する言葉として使われています。
この世界の被造物には、すべて限りがありますが「私たちの神のことば」は永遠に立つのです。時を超えて変わることなく、私たちにとって力あるものとして存在し続けるのです。人間の言葉の虚しさ、その中身のなさを感じることがときおりありますが、神さまの言葉は、常に力をもって私に語りかけてきます。
その力とは、慰めの力、であるということでしょう。ときに罪と咎を破壊するものではありますが、それも慰める、力づけるというまことの優しさに満ちた言葉なのだと思います。聖書の言葉が、福音を差ししめる言葉である、ということは、この優しさに満ちた言葉である、ということです。
教会は、神さまの言葉が語られるところです。そうであれば、教会で語られる言葉は、常にこのまことの優しさに満ちた言葉が語られるところである、と思います。そうして平和と平安に満ちたところ、安心して集うことのできるところが形づくられるのだと思います。
昨年のことを思い出すと、この11月は暖かいくて過ごしやすく助かっています。私の身体自体もよくなっている、あるいはこの身体に慣れてきている、ということかもしれません。感謝です。
薬は朝に6錠、昼1錠、夜2錠、と合計9錠飲むことになっています。これを欠かさず間違えないように飲むのには少し工夫が必要です。お薬ケース、なるものがあって、百均で買ったものを使ってきたのですが、しばらく前から新しいケースを使うようになりました。百均のもの(白いケース)は、準備の段階で薬を入れる時はやりやすいのですが、うっかりひっくり返すと全部の薬がごちゃごちゃになってしまいます(笑)。それで新調することになりました。こちら(カラーのケース)は薬を入れる時は、ちょっと手間なのですが、ひっくり返しても他の薬に影響がなく、また持ち運びもしやすいので、外食の時などもとても便利なものです。おすすめです。
日曜日は、役員の方々のあたたかな配慮と信徒の皆さんの祈りによって、み言葉の奉仕が継続されています。早朝では、一度フルの礼拝プログラムで行ってみたのですが、ちょっと無理だったようで、翌週からは、30分の礼拝に戻させていただきました。教会学校でのお話しもさせていただくようになりました。実は子どもたちへお話しをするのは喜びなのです(他も喜びですが・・・)。身体は疲れますが、心は元気になります。成長のテキストに従ってお話しするだけですが、心がけているのは、一つのポイントで福音を語る、ということです。10時からの礼拝では、成長懇談会でもお話ししましたが、講壇の位置を中央から少しずらし、聖餐卓も少しずらし、説教をするようになりました。また正式に決定しなければならないことですが、これはできるだけ礼拝の中心に「人間」が立たない、という工夫でもあり、私としては安心して話すことができ感謝しています。どうも皆さんの前、中央に立って説教していると「ハイル、ヒットラー!」みたいな感じを抱いてしまうのですね。ちょっと考えすぎですが・・・(笑)。しかし人間はどこまでも罪びとですので、このような図に逆にマウント行動の一種なのか快感を覚える人もいて、簡単にカルト化してしまうのも事実でしょう。前に立つことの「畏れ」「恐れ」を忘れてはいけないと思います。
先日の礼拝は私の配慮のなさもあってちょっとトラブルみたいなことがあって、何人もの方にご心配をいただきました。おかげさまでその時は大きなダメージはなかったのですが、やはりその夜から今朝ぐらいまでは、血圧、脈拍が不安定になってしまいますね。お騒がせして申し訳なく思っています。役員の方々も同様に心騒がせておられるであろうと想像すると恐縮です。皆さんの祈りに支えていただいているのだなあ、とつくづく感謝しています。教会が誰もが安心して集うところであるために引き続き祈って生きたいと思います。