静まりの時 2022年11月21日(月)
イザヤ55・1~5
ああ、渇いている者はみな、
水を求めて出て来るがよい。
・・・
耳を傾け、わたしのところに出て来い。
聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。(イザヤ55・1~5)
イエスさまは、祭りの大いなる日に民に向かって叫ばれました。
「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。
『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。』」(ヨハネ7・37,38)
イザヤの預言はここに成就しています。
昨日の礼拝でもお話ししましたが、私たちは聖書を信じているというよりも、イエスさまを信じている、という言い方の方が実態を表しているのだと思います。あるいは聖書を信じている、というのは、いわゆる「お筆先」のように信じているのではなく、聖書が指し示している福音を信じているということだと思います。
いろいろな新宗教から教会に送られてくる手紙類の中に、聖書の言葉がたくさん引用されているものがあります。たしかに聖書が読まれていて、その文言が意味を成しているのだと思います。しかしそこにイエスさまが信じられているか、私のために十字架に架かり甦って下さったお方への信頼があるか、といえばどうもそうはいえない感じがします。
イエスさまは「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります」と言われたのです。聖書を信じる者は、と言われたのではなく、わたしを信じる者は、と言われたのです。ですから、私たちはイエスさまを信じるということをしなければなりません。信じるということは、信頼するということですから、イエスさまのお心を私の心として生活をする、ということが大切なこととなります。
そのような信仰生活において「行ける水の川が流れ出るようになる」、つまり自らが潤されるだけではなく、他者を潤す者として遣わされる、というのです。何とすばらしい人生でしょうか。聖書の言葉を読み、思い巡らし、イエスさまのお心を私の心とする、それが私たちの日々の生活を豊かにします。
昨日の説教の中で引用した高田敏子という方の詩を掲載しておきます。
水の心
水は つかめません
水は すくうのです
ゆびを ぴったりつけて
そうっと 大切に―水は つかめません
水は つつむのです
ふたつの手のなかに
そうっと 大切に―水の心 も
人の心 も(『詞華集 日だまりに』、女子パウロ会編、より)
イエスさまは、私たちのどうしようもない心を、その御手の中に「そうっと 大切に」すくい、つつんでくださいます。そうして、神さまから離れてしまう私たちの心をご自身に引き寄せてくださいます。
私たちは「無心」になって、このお方の御手にお委ねしたいと思います。委ねることが、一番手っ取り早くイエスさまのところに私の心を添わせていただけるでしょう。もし「一心」に、あるいは「一心不乱」にイエスさまを追い求めようとすれば、結局そこには私の心が依然中心にあるので、まかり間違えばイエスさまから遠く離れてしまうでしょう。
水に溺れたときに、助けてほしいとやたらに力が入っていると、救助隊も大変です(笑)。一番救助されやすい人は、すべてを委ねて力を抜いている人ですね。
「仕事などに夢中になり、また専念することを『一心に』とは、『無心に』と言う。どちらも同じ意味の言葉のようだが、『一心に』よりも『無心に』と言うほうが、なんとなくいい。『一心に』と言えば、『いちずに』とか、『ひたぶる』とか、一つの目標に向かって、わき目もふらず突っ走っていくようだ。目標と私自身に歴然とした距離がある。わき目もふらずに力いっぱい前進する姿が、厳しく感じられる。『一心に』は、つまり『一心不乱に』とも言う。道草をしたり、気を散らしたりして、心を乱さないことである。立派だが、感心して見ているだけになる。ついていけない感じ。
それに対し、『無心に』というのは、今していることに吸い込まれて、自分自身がなくなってしまうこと、言い換えれば、していることと私が一体になって溶け合った状態である。そこでは、目標を目ざして走るのではない。すでに目標のところにいて、その足元を深く掘り下げている姿。『一心』のような緊迫感がない。むしろ広く、豊かな充実感がある。だから、『無心不乱』というような言葉は、ありえない。わき目とか、気を散らす可能性自体が消失してしまうので、『不乱』という言葉はいらないからである。」(奥村一郎、『断想 足元を深く掘れ』、「一心と無心」、女子パウロ会、62頁f)
この神父さんの逸話として聞いたことですが、あるとき犬の散歩をしておられたところ、出会う顔なじみの近所の方から「神父さん、どちらに行かれるのですか」と聞かれたところ「犬に聞いてください」と答えられたとか。きっと、一心ではなく無心に犬の散歩をされていたのでしょう(笑)。一心には不自由さを感じますが、無心は自由ですね。イエスさまがともにいて下さるのですから。
先日の土曜日に、団体の行事として「教会役員の集い」が開催されました。オンラインでの開催となりました。当日のDVDを作成しますので、もしお入り用でしたら、教会の受付のところに置いておきますので、お借り下さり学んでくださればと思います。役員の方だけではなく、ぜひ信徒の皆さんに学んでおいてほしいことごとですので、よろしくお願いします。