神を礼拝しなさい

静まりの時 2022年11月19日(土)
黙示録22・6~13

これらのことを聞き、また見たのは、私ヨハネである。私は、聞いたり見たりした後に、これらのことを示してくれた御使いの足もとにひれ伏して、礼拝しようとした。すると、御使いは私に言った。
「いけません。私はあなたや、預言者であるあなたの兄弟たち、この書のことばを守る人々と同じしもべです。神を礼拝しなさい。」
(黙示録22・6~13)

 使徒ヨハネは、自分にみことばを語ってくれた天使の足もとにひれ伏し、天使を礼拝しようとしました。すると天使は、私もあなたと同じ神さまのしもべなのだから、私を礼拝してはいけない、ただ神さまのみを礼拝しなさい、と語りました。
 「神を礼拝しなさい」。黙示録が、そして聖書が語っていることは、結局のところこれに尽きるのではないか、と思われます。神さまを知るためには聖書を読まなければなりません。また神さまを信じなければ、神さまを知ることが出来ません。信じて聖書を読まなければ、神さまを知ることが出来ません。自分の判断力を確かなものとして、自分を中心に、自分の知恵や知識によって、神を判断しようとしても、その神は、結局は私の頭に入るサイズの神でしょう。私のタイプの神、と言ってもよいかもしれません。お出会いする神が本当の神さまであるならば、私の知恵や知識、私のタイプも超えていなければ、神ではないのです。
 ですから、本当の神さまに出会うためには、礼拝、という方法でしか知ることが出来ない、あるいは知ったことにはならない、ということなのでしょう。

 御使い、天使、が自らの分をわきまえている、自らは礼拝の対象ではない、神ではないということをわきまえている、ということが書かれています。
 天使は、被造物の中でほぼ完全な存在でしょう。愛においても能力においても、あらゆるものを凌ぐ賜物に満ちた存在でしょう。その天使が、罪を犯すことが出来る、とすれば、ただ一つ、「高慢」です。自らを神と等しくする、という罪、それが天使の犯すことのできる唯一の罪なのだと思います。

 これは人間にも少し当てはまるように思います。人間は、天使ではありませんので、いわゆる罪を犯しますが、それでも、賜物にあふれ、愛にあふれる人は、まるで天使のような存在かも知れません。そうとすれば、愛にあふれ、賜物の豊かな人は、この天使が唯一侵すことのできる罪の誘惑に最も大きくさらされているといえるのではないでしょうか。
 そうとすれば、愛にあふれ、賜物の豊かな人ほど、人一倍、謙遜を身に着けなければならないということでしょう。

 新聖歌375に「全き平和」という賛美があります。この3節に「如何に高く、如何に深く、御恵みありとも すべて御手に ささぐるまで 主は用い賜わじ」という歌詞があります。
 この新聖歌375は、聖歌556の「祈りすれど手答えなく」と同じものです。この聖歌のほうの3節には「恵み持たず、賜物のみ 慕うとも益なし。汝がすべてをささげつくし、火を待てや、静かに」となっています。
 いずれも、賜物も、それ自体を主にささげるということのない限り意味がない、むしろ害となる、ということでしょう。神さまにささげられていない賜物は、どこまでも人間中心で、自画自賛で、傲慢、高慢の温床となるということでしょう。
 人間は、さまざまに罪を犯すものですが、この高慢という罪は、手ごわい敵です。ただ神さまを礼拝することによってのみ闘うことが可能となるのだと思います。明日は主の日。礼拝の日です。主にささげることをもって新しい一週間に出発したいと思います。