静まりの時 2022年10月28日(金)
ピリピ4・15~20
15 ピリピの人たち。あなたがたも知っているとおり、福音を伝え始めたころ、私がマケドニアを出たときに、物をやり取りして私の働きに関わってくれた教会はあなたがただけで、ほかにはありませんでした。
16 テサロニケにいたときでさえ、あなたがたは私の必要のために、一度ならず二度までも物を送ってくれました。
17 私は贈り物を求めているのではありません。私が求めているのは、あなたがたの霊的な口座に加えられていく実なのです。
18 私はすべての物を受けて、満ちあふれています。エパフロディトからあなたがたの贈り物を受け取って、満ち足りています。それは芳ばしい香りであって、神が喜んで受けてくださるささげ物です。
19 また、私の神は、キリスト・イエスの栄光のうちにあるご自分の豊かさにしたがって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。
20 私たちの父である神に、栄光が世々限りなくありますように。アーメン。
(ピリピ4・15~20)
「私の働きに関わってくれた教会」(15)は、新共同訳では「わたしの働きに参加した教会」、共同訳2018では「会計を共にしてくれた教会」。
「あなたがたの霊的な口座に加えられていく実」(17)は、新共同訳では「あなたがたの益となる豊かな実」、共同訳2018では「あなたがたの帳簿を黒字にする実り」。
いずれもおもしろい翻訳だと思います。
パウロは、福音宣教は商売の道具ではないので、自分の奉仕は無償で行うべきである、と考えていました。ですからテント作りを生業としていました。自らの生活費は自らが仕事をしてまかなっていたのです。よってどこの教会で奉仕をしても、報酬というものをいただくことをしなかったのだと思います。しかしそのようなパウロに対して、どうしても協力したくてしかたがない教会がありました。それがピリピの教会です。
そこで問題は、ピリピの教会から送られてきた物品をどのように受け取るのか。この受け取り方が問題であると考えたのでしょう。双方に誤解を生み出すことがないように、また他の教会にも誤解を生み出すことがないように、受け取らなければなりません。間違った受け取り方をするならば、誤解を生みだし、教会の聖さ、奉仕者の聖さが見失われてしまいます。
そこでパウロは「私は贈り物を求めているのではない」と語ります。そして「私が求めているのは、あなたがたの霊的な口座に加えられていく実である」というのです。私(パウロ)はというと、実は「すべての物を受けて、満ちあふれています」と語ります。
パウロさんを見ているとどうも欠乏しているようだ、ひとつ私たちがそれを支えてあげよう、という心は美しいものですが、そのようなことだけで、物のやり取りが生まれるとすれば、そこには聖さが失われていく可能性がある、ということではないでしょうか。そこに見失われているのは、神さまの視点、ということでしょう。
献げものは、神さまに向かってなされることです。そこに欠乏があろうがなかろうが、献げるということは、自らの益となる豊かな実、献げる者の帳簿が黒字にされることなのだ、というのです。パウロはやせ我慢をしているのではありません。ひたすら献げるということにおける聖さを保とうとしているのだと思います。
私たちも、物の大小にかかわらず、それが神さまに向かってなされた物である、ということを見失ってはいけないのだと思います。もちろん神さまにささげられたのだからといって受け取る側が「ありがとうございます」と言ってはいけない、ということではないと思いますが(笑)。
「福音を伝え始めたころ、私がマケドニアを出たときに、物をやり取りして私の働きに関わってくれた教会はあなたがただけで、ほかにはありませんでした。」(15)。
ここに「物のやり取りをして」という言葉があります。「やり取り」という言葉ですが、原文には、与えること、受けること、という二つの単語が使われています。竹森満佐一牧師は、これはちょっとおかしい言葉である、と説教集の中に記しておられました。受けるというのは分かるけれど、与えるということは果たしてこの時のパウロに可能だったのだろうか、と。このときパウロは獄中にありました。パウロから、ピリピの教会に「物」を送るということは不可能だったのではないか、というのです。そうするとここでパウロがピリピの教会との間でやり取りしたと語る「物」とはいったいなんだったのか。
ピリピからは確かに物品がやって来たのかもしれません。しかしパウロはそれを、ただの物品ではなく「霊的なもの」として受け取ったのでしょう。またパウロは物品としては何一つ送ることがなかったかもしれませんが、目に見えないもの、霊的なものを送ることになったのではないか。物品としてのやり取りはなかったかもしれないけれども、霊的なもののやり取りは豊かになされることであった、というのではないか。
獄中書翰という言い方があります。パウロの手紙の幾通かは捕らわれの中に書かれたものである、ということです。その手紙は、多くの教会に信仰の励ましを与えました。こんにちも、私たちは、パウロから多くのものをいただいています。そしてそれが神さまからのものであることを信じています。