静まりの時 2022年10月27日(木)
使徒5・1~11
ところが、アナニアという人は、妻のサッピラとともに土地を売り、妻も承知のうえで、代金の一部を自分のために取っておき、一部だけを持って来て、使徒たちの足もとに置いた。
すると、ペテロは言った。「アナニア。なぜあなたはサタンに心を奪われて聖霊を欺き、地所の代金の一部を自分のために取っておいたのか。売らないでおけば、あなたのものであり、売った後でも、あなたの自由になったではないか。どうして、このようなことを企んだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」
このことばを聞くと、アナニアは倒れて息が絶えた。これを聞いたすべての人たちに、大きな恐れが生じた。若者たちは立ち上がって彼のからだを包み、運び出して葬った。
さて、三時間ほどたって、アナニアの妻がこの出来事を知らずに入って来た。
ペテロは彼女に言った。「あなたがたは地所をこの値段で売ったのか。私に言いなさい。」彼女は「はい、その値段です」と言った。そこでペテロは彼女に言った。「なぜあなたがたは、心を合わせて主の御霊を試みたのか。見なさい。あなたの夫を葬った人たちの足が戸口まで来ている。彼らがあなたを運び出すことになる。」
すると、即座に彼女はペテロの足もとに倒れて、息絶えた。入って来た若者たちは、彼女が死んでいるのを見て運び出し、夫のそばに葬った。
そして、教会全体と、このことを聞いたすべての人たちに、大きな恐れが生じた。
(使徒5・1~11)
初代教会の共同(協同)生活は、バルナバに代表されるような献げきった信仰の証しを生み出しました。しかし逆にアナニアとサッピラのような人物も生みましました。さらには6章に記されているような配給の問題も起こります。今日の個所で11節に「教会」という言葉が登場しますが、異本を除けば使徒の働きでは最初に登場するとのこと。教会は問題が起こらないところではありません。問題が起こるということは、生きている、という証拠です。身体でいうと、病気になるのは、生きているからです。死んでしまっては病気にもなりません。教会において問題が起こらないことは大切なことですが、それ以上に大切なことは、起こった問題にどう対応するのか、ということでしょう。
さてアナニアとサッピラの事件は、衝撃的です。私たちはここから何を学ぶのでしょうか。どのような神さまの愛のお言葉を聞きとるのでしょうか。
そもそもアナニアとサッピラは、このような衝撃的な死をもって償わなければならないような罪を犯したのでしょうか。何の弁解の機会も、悔い改めの機会も与えられず、いきなり死の判決を下されなければならないような罪を犯したのでしょうか。あるいはイエスさまの愛を考えるならば、ここで赦しということが全く考慮されていないことは、どういうことなのでしょうか。
そのような疑問をひとまず挙げておいた上で、内容を見たいと思います。
アナニアとサッピラに罪があったとするならば、それは3節のペテロの言葉から推測すると、嘘をついた、ということでしょう。その嘘もうっかりミスや、成り行きでそうなった、一時的な気分で犯してしまった、というのではなく、「妻も承知の上で」(2)ということですので、熟慮に熟慮を重ねて共謀したということです。そのような嘘、欺きに対して、私たちの常識を超える審きが下された、ということでしょう。
「人を欺いたのではなく、神を欺いた」(4)のだ、とペテロは言いました。共同生活が麗しく前進する中で、他者を欺く人が出てきた、それは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ、と初代教会は考えたのです。
3節4節のペテロの言葉から、初代教会においては、献げものはすべて自主的なものであった、ということが読み取れると思います。教会においては献げものを強制されることはないのです。自由が保障されていることが、献げものが献げものとなるための大切なことでしょう。しかし、あからさまな強制がなかったとしても、無言の強制みたいなものは、もしかしたらあるかもしれません。署名とカンパが回ってきたとき、前の人がいくら入れているかは、一つの基準になりますね(笑)。とくに同調圧力の強い日本では、いろいろ難しい場面が生まれやすいのだと思います。教会は、献げものにおいては、強制力がかからないようにさまざまに工夫をしなければならないのだと思います。
神さまの前にいったん献げることを決めた献げものも、その後の様々な事情の中で変化することもあるでしょう。そうであれば、その事をまた神さまの前に正直に祈り、また人びとの前に正直になればいいのだと思います。しかしいったん献げるとしたことが変化しても、それをそのままあたかも献げることとしている、という偽りが、問題なのだと思います。その偽りは、人を欺くことではなく神さまを欺くことであり、また自分自身を欺くことでしょう。自分を欺く人生が、いのちにあふれた人生になるはずがありません。
この出来事によって「大きな恐れが生じた」(5,11)とあります。結局、アナニアとサッピラの出来事は、共同生活において往々にして生み出されやすい甘えみたいなものに、一つの聖さが確認された、ということかもしれません。
以上のように考えてきましたが、それにしても、アナニアとサッピラのこの急激な死には、依然理解しがたいもの、受け入れがたいものがあります。イエスさまは七を七十倍するまでゆるしなさいと言われたではないか、せめて悔い改める機会を与えるべきではなかったか、などなど。
しかし私たちは、神さまの聖さをどのように考えているでしょうか。旧約聖書を読むと、そこには恐ろしいまでの神さまの聖さが語られています。それは旧約聖書の時代だけのことなのでしょうか。神さまは、私たちの罪を赦すために、御子イエスさまをこの地に遣わし、十字架の死に渡されたのです。私たちの罪は神さまのいのちをもってしかあがなうことのできないほどに大きく深いものなのです。
ですからアナニアとサッピラの「嘘」という罪でさえ、人間の前であるならばいざ知らず、神さまの聖さからすれば、当然死をもって償うべき重大なことなのだと思います。そのような神さまの圧倒的な聖さを私たちはどれだけ受けとめているのでしょうか。いわゆる赦しばかりが強調されて、神さまの聖さが語られていないとするならば、赦しの「ありがたさ」が希薄になるばかりではないでしょうか。そこで語られる赦しは、安易な赦しとなり、結局「許し」「許容」になってしまうのではないでしょうか。
そこで、私たちとアナニアやサッピラとどれくらいの違いがあるのかを考えなければなりません。私たちは、アナニアとサッピラ以上に、嘘もついたでしょう、間違いも犯したことでしょう。アナニアとサッピラがこのような急進的な審きにあったとするならば、なおさら私などは、もはや生きていることなどできるはずがありません。もう何百回も聖なる神さまの審きに死んでいるのだと思います。
大切なことは、その事が十分に理解されたうえで、今こうして生きている、ということです。本来ならばすでに生きることがゆるされない者であるにも関わらず、こうして生きている。それはまさに神さまが生かしていてくださる。私がこうして生きている、という現実は、ただ神さまの御忍耐と赦しによって生かされている、ということなのです。罪ある者で、死を免れることのない存在であるにも関わらず、こうして今日も生かしていてくださる。生きている、ということ、そのものが、もったいない、ありがたいこと、なのです。生きている、ということは、神さまによって生かされている、ということであり、私の生が神さまの肯定の中にあるということなのです。
「人の美しさは、自分をあるがままに受け入れたときに輝きます。」(ジャン・バニエ)