静まりの時 2022年10月26日(水)
使徒4・32~37
さて、信じた大勢の人々は心と思いを一つにして、だれ一人自分が所有しているものを自分のものと言わず、すべてを共有していた。使徒たちは、主イエスの復活を大きな力をもって証しし、大きな恵みが彼ら全員の上にあった。彼らの中には、一人も乏しい者がいなかった。地所や家を所有している者はみな、それを売り、その代金を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。その金が、必要に応じてそれぞれに分け与えられたのであった。
キプロス生まれのレビ人で、使徒たちにバルナバ(訳すと、慰めの子)と呼ばれていたヨセフも、所有していた畑を売り、その代金を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。
(使徒4・32~37)
初代の教会の、共同生活の様子が記され、その具体的な例としてバルナバの行動が記されています。
「すべてを共有していた」というのがどれくらいのことであったのかはわかりません。しかしそこに初代教会の麗しい交わりを見て取ることが出来ると思います。そのような彼らにおいて、証しと恵みの力が豊かにあらわされたのだと思います。経済の体制や状況が現在のものとは違うのだと思いますが、このように兄弟姉妹としてのありかたが、生活の具体的なところにおいてまで現わされていることは、学ばせられることです。
ささげられたものは「必要に応じてそれぞれに分け与えられた」とあります。乏しい者がいないように、分配をした、ということでしょう。そのような働きを教会はした、ということです。イエスさまを信じる信仰生活が、兄弟姉妹への具体的な援助に実を結んでいたということでしょう。
その具体例としてのバルナバが続いて記され、さらにこのあと5章にアナニヤとサッピラの出来事が記されていますが、これは、バルナバとは対照的な例として考えさせられることです。
聖書の読み方ですが、この個所を読んで、自らの財産をすべて売却して教会に献げる、ということが起こったとすれば、それはそれで大切な献身の姿としてもよいのかもしれませんが、聖書的にはそれはどうなのでしょうか。
たとえばこの使徒の働き12章には、捕らえられたペテロのための祈りがささげられたことが記されています。その祈祷会の場所が「マルコと呼ばれているヨハネの母マリアの家」(使徒12・12)であることが明記されています。つまりヨハネの母マリアは、教会の祈祷会のために自宅を解放するほどの熱心な信仰者であったのですが、依然自宅を所有していました。つまり「地所や家を所有している者はみな、それを売り、その代金を持って来て、使徒たちの足もとに置いた」ということをしていません。売らずに所有したまま、しかし教会のために利用することをしていた、ということでしょう。ささげ方の実態としては、それぞれのかたちがあった、ということではないでしょうか。
聖書は神さまの言葉ですから、文字どおりを読む、ということを大切にしなければならないのではありますが、全体から読んでいかなければならないということも、また大切なことです。聖書の一部を切り取って、兄弟姉妹を指導しようとするならば、今話題の新宗教のようなことになってしまうのかもしれません。
バルナバのことを、括弧書きで「訳すと慰めの子」と説明しています。この括弧書きは、日本語に訳す時につけられたものではありません(笑)。聖書の原文にこのように記されているのです。
初代の教会の礼拝において使徒の働きが朗読された際、バルナバという言葉を、説明する必要があった、ということでしょう。本名はヨセフさんですが、みんなからはバルナバと呼ばれていたのです。教会に始めてきた人は、なんでヨセフさんのことを、みんなはバルナバと呼ぶんだろうか、バルナバっていったいどんな意味なんだろう、ということだったということですね。その説明をした、あるいはそのよう説明をされて、みなが納得するような人物であった、ということでしょう。ヤコブとヨハネを、雷の子、と呼んで皆が納得したように(笑)、慰めの子と呼ばれることが皆に了解されるような人物。そんな人間でありたいですね。
「信じた大勢の人々は心と思いを一つにして」。教会はさまざまな考え方を持つ者が安心して集うことができるところです。それは、心と思いを一つにしている、ということがあったから可能となったのだと思います。心を思いを一つにしている、ということは、同じ考え同じ趣味、同じ顔を持っていることではありません。みんな違って、みんないい、なのです。それが安心して集うことが可能となるのは、イエスさまにあって一つである、ということでしょう。ですからルールが必要なのです。そしてルールに対する尊敬の心が必要なのです。初代教会はこののちさまざまなルール作りをしていくことになります。様々なルール作りといっても、とってつけたような新しい戒め、掟を作っていったのではありません。すでに教会に暗黙の裡(うち)に了解されていたことをただ明文化していったということです。聖書が旧約聖書39巻、新約聖書27巻と「結集」(けつじゅう)する道のりも、すでに教会において大切に読まれていたものを、教会があらためて確認したということです。それと同じように、イエスさまの復活の証しによって前進する教会は、すでにイエスさまの聖さや愛のルールをいただいていますから、それらが具体的なところで花開いていることを、ただ明文化していった、それが教理であり信条なのです。