主の聖なるものとなる

静まりの時 2022年10月25日(火)
レビ27・30~33

30 地の十分の一は、地の産物であれ木の実であれ、すべて主のものである。それは主の聖なるものである。
31 しかし、もしも人がその十分の一の一部を買い戻したいのであれば、それにその五分の一を加える。
32 牛や羊の十分の一については、牧者の杖の下を通る十番目ごとのものが主の聖なるものとなる。
33 その良し悪しを見てはならない。また、それを取り替えてはならない。もしも、それを取り替えることがあれば、それも代わりのものも、ともに聖なるものとなる。それを買い戻すことはできない。
(レビ27・30~33)

 「主の聖なるもの」。「聖」という言葉の意味は倫理道徳的にきよいという意味ではなく、ここでは神さまのもの、という意味でしょう。聖なるものである、ということは、それは神さまのものである、ということ。聖なるものとなった、というのは、神さまのものとなったということでしょう。神さまのものとなったからには、人間の手からしっかりとはなすということが大切なこととなります。
 神さまのものである地の十分の一、すなわち地から収穫されるすべてのものも、その十分の一は神さまのものなのだから、神さまにお返ししなければならない、といいます。もしその十分の一の一部(共同訳2018では十分の一)を買い戻したいならば、「それに、その五分の一を加える」といいます。これの意味がいまいち分からないのですが、とにかく、十分の一の扱いについてはたやすく人間の都合で左右してはならない、ということでしょう。
 牛や羊といった家畜については、一頭の全体重の十分の一を献げるということではなく、10頭のうちの一頭を献げる、とあります。家畜が檻の扉を出て行くとき(入って行くとき?)に数えていて、10番目ごとにより分ける、というのです。千頭もいればなかなか大変な作業だと思います。全体の数を把握して、その10パーセントを聖なるものとすればよいというわけにはいきません。10番目に来る家畜がどのようなものであるのかは、誰にも分かりません。良い家畜もあれば、悪い家畜もあるでしょう。しかしかといって取り換えることはしてはいけない、もしそういうことをしたならば、取り替えようとしたものも、されたものも両方とも聖なるものとなる、というのです。支出が増えるのですから、この戒めを破ることには勇気がいります。

 「献げる」ということにおいて徹底して「人間的なもの」を排除しようとしているように思います。それは献げるということにおいてこそ、人間的なことが侵入しやすいということかもしれません。
 政治の世界でも「政治献金」という言い方でお金のやり取りがあるとのことです。献金というからには、献げるということですから、人間的なもの、が排除されていることがうたわれています。もしそこに人間的なもの、このお金で自分の言うことを聞いてもらおう、自分に有利な政治が行われるようにお願いしよう、ということが入っているとすれば、それは献金ではなく、賄賂、ということでしょう。
 信仰の世界において、献金がなされるときに、献げるということを確かにするために、つまり人間的なものが入り込まないように、さまざまな取り組みや工夫がなされます。無記名にするとか、袋に入れるとか・・・。もし人間的なものが入り込んでしまうならば、献金ではなく、神さまへの賄賂になってしまう可能性が生まれます(笑)。お金で神さまに言うことをきかせようとしているとすれば、もうどちらが神なのか分からなくなってしまいます。

 昨日は、久しぶりに滋賀超教派牧師会が行われました。依然オンラインでの交わりの時ですが、礼拝があり、各種報告があり、各教会や牧師たちの近況、祈りの課題が分かち合われました。
 また昨日はピアノの調律も行われました。2時間弱の作業ですが、その繊細で丁寧な作業に、毎回、感心します。
 この5月に来日しご奉仕くださった宣教師の先生が帰国されました。フライトは今日の予定ですが、一日早く滞在地の本部を出発されました。駅までの送りは近くの姉妹が名乗り出てくださいました。感謝です。私は会議で行けなかったのですが、妻がお見送りに出かけました。いくつかの荷物を手に元気に出発されました。手荷物の袋がちょっとあれだったので、持ち合わせの買い物袋をお渡ししたようです。
 修道院の戒律はさまざまにありますが、代表的なものとして「ベネディクトゥスの『戒律』」というのがあります。戒律は、過度の修行を禁じるという働きもありますが、大雑把にいうと、従順と貧しさ、を学ぶために作られました。
 修道院はローマ・カトリック教会ならではのものですので、私たちプロテスタントにはあまりなじみがありません。しかしプロテスタントであってもむかしからの宣教師には、その「香り」があるように思います。従順と貧しさ。ことにこの貧しさについては、貧乏ということでは全くなく、むしろ豊かさに満ちた貧しさと言いますか、そういう香りがするのです。ちょっとあれな袋をいつまでも使い続けることは、貧乏なのではなく、この豊かさに満ちた貧しさに生きておられるからなのだと思います。旅の安全と祝福、そして再来日を祈ります。