静まりの時 2022年10月22日(土)
ヨハネ17・1~5
1 これらのことを話してから、イエスは目を天に向けて言われた。「父よ、時が来ました。子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください。
2 あなたは子に、すべての人を支配する権威を下さいました。それは、あなたが下さったすべての人に、子が永遠のいのちを与えるためです。
3 永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。
4 わたしが行うようにと、あなたが与えてくださったわざを成し遂げて、わたしは地上であなたの栄光を現しました。
5 父よ、今、あなたご自身が御前でわたしの栄光を現してください。世界が始まる前に一緒に持っていたあの栄光を。
(ヨハネ17・1~5)
「大祭司イエスの祈り」と言われるところです。イエスさまは十字架を前に祈られました。この祈りの間、弟子たちは傍らでその祈りに耳を傾けています。祈っておられるイエスさまを見つめています。彼らにはイエスさまの祈る姿が見えているのですが、そこにイエスさまの祈りを聞いておられる父なる神さまのお姿が見えていることでしょう。
「永遠のいのち」とは、神さまを知ること、そしてイエスさまを知ることである、と祈られました。
「神さまを知る」ということによって永遠のいのちをいただける、というのと少し違って、神さまを知るということが「永遠のいのち」そのものである、というのです。神さまを知るということによって、死が絶対的な滅びの時ではなく、永遠のいのちに生きることが可能となるというのも真実だと思いますが、ここでイエスさまが祈っておられるのは、神さまを知る、ということそのものが、永遠のいのちなのだ、ということです。いったいどういうことでしょう。
永遠という言葉は、はじめも終わりもなく、限りないものである、ということでしょう。私たちのいのちは、はじめがあり終りもある、そのように限界のあるものです。しかし神さまを知る、ということによって、そのいのちが限りないものとなる、神さまを知る、というその瞬間にいのちが限りないものとなる、というのです。
神さまを知る時。さまざまな時に私たちは神さまを知ることが出来るのかもしれません。しかし何よりも神さまを知ると言った場合、それは礼拝の時ということが出来るのではないでしょうか。日曜日の朝の主日礼拝において私たちは、神さまを知る、という時をいただいているのです。その礼拝の時に私たちは、永遠のいのち、に生かされているということが出来る、というのではないでしょうか。
「知る」ということで、それまで自分にはなかった世界が広がる、という経験をします。美術館で一枚の絵に出合い、その画家の人生に出会うとき、それまで自分に無かった世界につなげられた感じがします。それと少し似ているでしょうか。神さまを知る、ということで、神さまのお心を知り、神さまの見ておられる世界に触れることが出来る、そうして限りあるこの世のいのちに生きる私が、神さまのいのち、永遠のいのちに触れる、そしてそれが自分という小さな存在に結びつけられていることを知る、そんな体験でしょうか。礼拝の時は、そのような永遠のいのちの喜びをいただく時なのだと思います。
神さまを「知る」といってもいろいろな知り方がありますが、ここで大切なことは「イエスさまを知る」ということと神さまを知るということが一つとなっているということでしょう。神さまを知るけれども、イエスさまを知ることがない、あるいは聖書が語るようにイエスさまを知ることがない、というのならば、神さまを知ったことにならない、少なくとも永遠のいのちをいただくことにはなっていない、ということでしょう。
イエスさまを知る、ということは、それはイエスさまの十字架と復活を知るということです。神さまの愛と義がそこに明らかにされています。神さまの愛と義を知ること、それが神さまを知ることである、そして永遠のいのちをいただくことである、というのです。
イエスさまの十字架と復活を知るということ。それは神さまが愛であることを知る、まことの裁き主である神さまの前に、本来ならば裁かれて当然の者でしたが、罪赦された者として立たしていただく、そのような自分にしていただいたことを知るということでしょう。神さまを知る、イエスさまを知る、ということは、自分がどのような存在であったか、そして今どのような存在にしていただいたのかを知るということでもあります。つまり自分を知るということでもある、ということです。
イエスさまはまことの神さまです。聖書はそのイエスさまのことを「神の言葉」(ヨハネ1章)といいます。神さまが私たちに語って下さった言葉は、このイエスさまである、ということです。神さまを知る、ということは、その神さまがお語りくださる言葉がこれである、このイエス・キリストご自身が、私の語る言葉だよ、と言って下さっている。そうして私たちは、イエスさまの十字架と復活に出会う。神さまは今日も愛と赦しを語っていて下さる、ということを知り、それを受け入れるのです。
聖書を読む時、そこに神さまの愛と義を知り学びます。聖書の読み方として、大切なことは、自分自身がそこに神さまに愛と義を読み取る、聴き取る、ということでしょう。私をこよなく愛していてくださる神さまの愛に出会うための言葉、それが聖書です。まちがっても誰かを裁いたり、誰かをコントロールするために利用してはいけませんね。聖書は「私」への神さまからのラブレターなのですから。
今日は備えの日。明日は主の日です。永遠のいのちに生かされていることを知り味わう時です。良い主の日を過ごすために、今日のこの日を良い備えの日としましょう。