わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします

静まりの時 2022年10月21日(金)
ヨハネ16・4b~11

7 しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。
8 その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。
9 罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。
10 義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。
11 さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。
(ヨハネ16・7~11)

 私たちは使徒信条の中で、イエスさまは「天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり」と告白します。天に昇られた、昇天された、という信仰告白には、大切な意味があります。それは今現在イエスさまは天の父なる神さまの右に座して私たちをとりなしていてくださる、父なる神さまにとりなしていてくださる、ということでしょう。
 それに加えて、助け主、すなわち聖霊なる神さまが私たちのところに遣わされて来られた、ということにおいても大切な意味があるというのです。子なる神であるイエスさまが昇天されたので、聖霊なる神さまがこの地に来てくださった、そうして聖霊なる神さまが、大切なことをなしてくださっている、とヨハネは語りました。

 その大切なお働きとは何であるのか。「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます」。この世は、罪について、義について、さばきについて間違った理解をしている、聖霊は、その間違いを正してくださるのだ、とイエスさまは言われました。
 罪とは何であるのか。それは「わたし」すなわちイエスさまを「信じない」ことである、と言います。神を信じない、神をイエス・キリストにおいて信じない、たとえ信じたと言っても自分勝手に信じている、それがこの世の姿、罪びとである私たちの姿である、それを正してくださる、罪とは一体なんであるのかを明らかにしてくださる、それが聖霊なる神さまの大切なお働きである、というのです。
 神さまを信じる、ということ自体が、聖霊なる神さまのお働きによるものである、ということです。

 義とは何であるのか。義を成り立たせるためには何が必要であるのか。律法の行ないで成り立たせるものなのか。律法を行うことによって形づくられる義は、本当の義なのだろうか。聖書が語る義に生きる、ということはいったいどういうことであるのか。
 イエスさまは、義とは「わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなる」、そこにまことの義がある、本当の義が成り立つのだ、といわれました。
 イエスさまも十字架と復活、そして昇天によって生まれた義、イエスさまの尊い犠牲、すなわち愛によって成り立つ義、それが本当の義である、そのことを聖霊なる神さまは世に明らかにしてくださる、というのです。私たちが、イエスさまを信じる以前に抱いていた正しい生き方ではなく、イエスさまを信じて初めて知らされた新しい義、その義に生きる者となった、その義を悟らせてくださる、それが聖霊なる神さまのお働きである、というのです。

 さばきとは何であるのか。イエスさまは「この世を支配する者がさばかれたから」と言われました。新共同訳では「この世の支配者が断罪されることである」と訳されていますが、原文に従うと完了形の受動態なので新改訳や共同訳2018などのように「この世を支配する者がさばかれた」「この世の支配者が裁かれたこと」が意味をより一層明らかにしているように思います。この世を支配する者は「すでに」さばかれている、あるいはさばきの中にあるのです。カルヴァンはこの個所の注解として次のように語っています。

「福音の光がともされて、霊が、この世の状態は、サタンからその支配権をのぞき去ったキリストの勝利によって、ただしい秩序に配置された、と明示するのである・・・」
(カルヴァン、『新約聖書註解4、ヨハネ福音書・下』、新教出版社、1965年、517頁)

 単にいろいろな罪がさばかれたというのではなく、キリストの勝利によって、ただしい秩序に配置された、というのですから、全く新しい世界が始まった、というのです。それが、この世は誤解している、聖霊なる神さまがそれを正しい理解にしてくださる、というのです。

 聖霊なる神さまのお働きとは、この三つである、ということでしょう。ほかにもいろいろあるのでしょうか。もしかしたら他にもいろいろあるのかもしれません。しかしたとえあったとしても、イエスさまはこの三つこそ聖霊なる神さまのお働きである、と言われました。ですから、罪と義とさばきについての誤った理解を改めて、聖書の語る罪と義とさばきへの理解をいただくことこそ、聖霊に生かされている人、聖霊に満たされている人、ということが出来ます。この三つの理解が聖書的になされていない、あるいは依然誤解されたままである、この世の考え方と何ら変わらない、ということであれば、いくら(いわゆる)霊的に見える現象があったとしても、少なくとも聖書の語る「聖霊に満たされている」と言うことはできないことになります。

 それにしても、罪、義、さばき、といった信仰の根幹にかかわることさえも、神さまのお働きによってなしてくださる、ということは、私たちの信仰は大安心の中にある、ということですね。

「わたしは初めからこれらのことを話すことはしませんでした。それはあなたがたとともにいたからです。」(4b)

 この時、イエスさまがこれらのことをお話しくださったのは、今までは一緒にいたけれども、今後は一緒にいなくなるから、ということでしょう。今後は一緒にいなくなるけれども、聖霊を遣わす、それによって、一緒にいる、ということが実現する、より一層一緒にいるということが実現する、聖霊によって罪、義、さばきについて、その誤りが正されることによって、イエスさまはともにいて下さる、ということでしょう。私たちは、こうしてイエスさまと一緒にいるという恵みの中に生きる者としていただきました。神様がともにいる、ということは、この罪、義、さばきについて悟る、ということにおいて実現している、ということです。

 寒暖の差が激しくて、朝夕は寒さに震えるのですが、日中は汗ばむ時もある、という感じですね。ご自愛くださいますように。今日もすがすがしい青空が広がっています。昨日視力のことを書きましたが、さっそく視力回復の動画をご案内いただきました。人間の身体は全体がつながっているのですね。ズボラ筋の説明、とてもよくわかる動画でした。感謝です。