静まりの時 2022年10月17日(月)
ダニエル3・19~25
シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは王に答えた。
「ネブカドネツァル王よ、このことについて、私たちはお答えする必要はありません。もし、そうなれば、私たちが仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ、あなたの手からでも救い出します。しかし、たとえそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々には仕えず、あなたが建てた金の像を拝むこともしません。」
すると、ネブカドネツァルは怒りに満ち、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴに対する顔つきが変わった。彼は炉を普通より七倍熱くするように命じた。また彼の軍隊の中の特に力の強い者たちに、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴを縛って、火の燃える炉に投げ込むように命じた。
三人は、上着や下着やかぶり物の衣服を着たまま縛られ、火の燃える炉の中に投げ込まれた。王の命令が急であり、炉が非常に熱かったので、その炎はシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴを持ち上げた者たちを焼き殺した。この三人、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは、縛られたままで、火の燃える炉の中に落ちて行った。
そのとき、ネブカドネツァル王は驚いて急に立ち上がり、顧問たちに尋ねた。
「われわれは三人の者を縛って火の中に投げ込んだのではなかったか。」
彼らは王に答えた。
「王様、そのとおりでございます。」
すると王は言った。
「だが、私には、火の中を縄を解かれて歩いている四人の者が見える。しかも彼らは何の害も受けていない。第四の者の姿は神々の子のようだ。」
(ダニエル3・16~25)
ネブカドネツァル王は、巨大な金の像を造らせ、国民にそれを拝むことを強要します。もし拝むことを拒むならば、燃える火の炉に投げ込むと、伝令に叫ばせました。すべての人がこの金の像を拝みました。しかしその中に金の像を拝まな者が3人いるとの知らせが王のもとに届きます。その3人は王の前に連行され、王から問われました。拝まないというのは本当か。3人は答えました。
「ネブカドネツァル王よ、このことについて、私たちはお答えする必要はありません。もし、そうなれば、私たちが仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ、あなたの手からでも救い出します。しかし、たとえそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々には仕えず、あなたが建てた金の像を拝むこともしません。」(16~18)
ここに奇跡が起こっています。奇跡とは何であるのか。こののち火の中に投げ込まれてもなお焼き尽くされないということに奇跡があります。しかしその前に、それよりももっと大きな奇跡があります。それが、この王の前の告白です。この奇跡こそ、キリスト者が発見しなければならない奇跡でしょう。十字架に神さまの奇跡を発見したキリスト者は、ここにこそ神さまの奇跡を発見するのです。火の中でもなお焼き尽くされないことは、誰が見ても奇跡です。しかしこの3人の告白は、信仰を持つ者でなければ言い得ない言葉でしょう。ここにこそ私たちは神さまの奇跡を発見する者です。
ネブカドネツァル王だけではなく、権力者、あるいは権力にあこがれ、権力を手にしようとする者は、いわゆる金の像を造り、それを人びとが拝む姿を追い求めます。歴史上に登場する権力にあこがれる人びとも、今日世界のいたるところにいる権力に魅せられた人びとも、みなそうなのです。これは決して他人ごとではありません。私たちも小さな世界において、権力にあこがれます。そのとき、金の像、虚像を造るのです。そして人びとの心を思いのままに支配しようとします。拝むという、まことにプライベートな、それでいて人間の根幹にかかわる問題に、土足で入り込もうとします。そうして自分の思うように自分の周りをコントロールしようとして、結局、さまざまな破壊を生み出してしまいます。
そのような権力にあこがれる人の罪の前に、敢然と立ち向かう人の存在は、まさに神さまが立ててくださった奇跡でしょう。ネブカドネツァル王の前に立っているこの3人の若者はまさに奇跡であり、そして彼らが王の前に語った言葉は奇跡の言葉だったのだと思います。
奇跡の言葉を語った彼らでしたが、しかし燃える炉の中に放り込まれてしました。人間の目には、何の奇跡も見えません。結局、これで終わり、ということだったでしょう。しかしここから、彼らの言葉が奇跡であったことが明らかになります。
そのとき、ネブカドネツァル王は驚いて急に立ち上がり、顧問たちに尋ねた。
「われわれは三人の者を縛って火の中に投げ込んだのではなかったか。」
彼らは王に答えた。
「王様、そのとおりでございます。」
すると王は言った。
「だが、私には、火の中を縄を解かれて歩いている四人の者が見える。しかも彼らは何の害も受けていない。第四の者の姿は神々の子のようだ。」
(24~25)
奇跡の言葉を語る者に、神さまは奇跡を起こしてくださいます。彼らを炉に投げ込んだ者たちさえ焼き尽くすほどの火炎から、この3人は守られるのです。彼らの衣服さえも守られました(27)。神さまの守りは完全な守りなのです。
ネブカドネツァル王は、炎のなかに三人とは別の「もう一人の人」を見ました。共同訳2018で25節を読んでみましょう。
王は言った。
「しかし私には、四人の者が縄目を解かれ、火の中を歩いているのが見える。しかも何の害も受けていない。四人目の者の姿は神の子のようだ。」
(25節、共同訳2018)
「神の子のようだ」。
神の子は、このとき炎の中で彼らとともにいてくださったのです。
きょうも、神さまの御子イエスさまは、私たちが炎のようなところを歩むことがあってもともにいてくださいます。まことの神さまを神さまとして歩もうとする者とともにいてくださいます。
二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。(マタイ18・20)
昨日、説教の中で紹介したルワンダの虐殺を生き延びた一人の女性の祈りを掲載しておきます。
「まず何よりもまっさきに、私は神様に感謝を捧げねばなりません。
すばらしい父であり、かけがえのない親友であり、真実の信託者、そして救助者。
あなたは、私の良き時も、最悪の時も、いつでも常に一緒にいて下さいました。
ありがとうございます。私の心を開いて下さり、もう一度愛をあふれさせて下さって。
あなたなしには、私は何ものでもありません。あなたとともにあれば、私はすべてです。
私はあなたにすべてをゆだねます。神様。どうぞあなたのご意思を私の人生にお示し下さい。私は、あなたの後についていきます。」
(イマキュレー・イリバギザ、スティーヴ・アーウィン、『生かされて』、PHP研究所、2006年、365頁)
早朝の礼拝では、この本の中から一つの文章を紹介しました。この本の主人公のお父さんが、自分たちを殺しにやって来た集団に向かって独り立ち向かいつつ、同じ村の人たちに対して叫んだ言葉です。
「みなさん、みなさん」と、彼は叫びました。その声は群集の上にとどろき渡りました。
「あなたたちが心配しているのはよくわかります。でも、彼らは数少なく私たちは大勢です。もし、神の愛を抱き続けるならば、そして、彼らが悪魔に操られ、単に憎しみだけが理由で私たちを殺そうとしてくるならば、彼らは私たちよりも強くはありません。みなさん、自分自身を信じましょう。おたがいを信じましょう。神を信じましょう」
(前掲書、104頁f)
このお父さんの言葉の最後にはこう記されています。
「もし政府が私たちを殺そうとするならば、私たちに出来ることは祈ることだけです。残された時間、懺悔をし、私たちの罪の許しを乞いましょう。もし死ななければならないのなら、綺麗な心のままで死ぬのです」(同、105頁)
やがてこのお父さんも虐殺の犠牲者となります。この本の主人公イマキュレーさんの3人の兄弟たちも同じように殺されてしまいました。一人生き延びてこの本を書かれたとのことです。
なんとか生きる道はなかったかと、思いつつ読むことになった本です。ダニエル書に記され3人の若者と共にいる神さまは、この本に記されている神さまと同じです。火の中にあっても守られることもあれば、虐殺の犠牲者になることもあります。しかし神さまを信じる心は誰にも滅ぼすことができません。私たちが信じる神さまも、彼らの信じた神さまと同じ神さまなのです。
昨日は、久しぶりにともに集まっての礼拝を行うことができました。大変感謝な一日でした。少し喜びすぎたのか、夕刻から少ししんどさを覚えて早く休むことになりました。やはりいきなりトップスピードはよくないようです。10時からの礼拝で体調不良により説教ができなくなった時のために、早朝礼拝をビデオ撮りにしたのですが、そのために早朝礼拝をフルで行ってしまいました。次週からは少し工夫した方が良いように思いました。役員の方々が負って下さっている重荷を、教会の皆さんが分かち合いながら心一つに祈るなかに、主はともにいて下さいます。感謝します。