静まりの時 2022年10月15日(土)
使徒28・23~31
パウロは、まる二年間、自費で借りた家に住み、訪ねて来る人たちをみな迎えて、少しもはばかることなく、また妨げられることもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。
使徒28・30~31
使徒の働きの最後には、パウロがローマにおいて伝道したようすが記されています。パウロは最終的にはローマに行って宣教しなければならないと考えていました(使徒19・21)。しかしパウロがローマにやって来ることになったいきさつを見ると、自らの計画でやってきた、というのとは少し違います。パウロの主張する福音に反対するユダヤ人とのいさかいにより逮捕されたパウロが、ローマの総督カエサルに上訴したことにより、囚人として護送さることになったからです(26・32、27・1~)。上訴したということが、ローマ行きを決定したということを考えると、パウロは計画的に上訴してローマ行きの道をひらいた、とも考えられますが・・・。いずれにせよ、どのような形であっても、ローマでの宣教の道が開かれたというは、パウロの喜びであったと思います。
使徒の働きは、ルカの福音書の続編であるといわれます。ルカの福音書は、テオフィロという人物に福音を語ろうとしたルカが書いたものです(ルカ1・3)。ルカの福音書は「いつも宮にいて神をほめたたえていた」で終わります。ユダヤの神殿において、イエスさまを信じた人たちが、イエスさまをほめたたえていた、という言葉で終わるのです。その続編として書かれた使徒の働きでは、同じくテオフィロに向かって、イエスさまが天に上げられた日からのちのことを書き記されていきます(使徒1・1,2)。
つまり、ルカは、福音書においてイエスさまがまことの神さまであり救い主であることを明らかにし、それを信じた弟子たちが、いかに世界に向かって宣教していったのか、どのようにして世界に広がっていったのか、ということを記した、ということでしょう。そしてその書の最後の言葉が「少しもはばかることなく、また妨げられることもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた」。
パウロは、人びとが自分の言葉に耳を傾けてくれたので、一所懸命神さまの言葉を宣べ伝えたというのではありません。むしろパウロのもとを訪れた大勢の人たちは、信じようとしませんでした(24)。その現実に旧約聖書の預言の成就を見つつ、パウロは語り続けました。そのことが使徒の働きの締めくくりとして記されています。
おそらくルカの福音書を読むことによってテオフィロはイエスさまを信じる者となったことでしょう。その生まれたばかりのキリスト者に向かって、ルカは、使徒たちの宣教は、苦しみと迫害の中に前進すること、人びとは耳を傾けようとしない、けれども使徒たちは語り続ける、それが教会の宣教である、テオフィロよ、あなたもその福音に与ったのだ、とルカは語ったのだと思います。「いつも宮にいて神をほめたたえていた」(ルカ24・53)人たちは、福音を語り続け「少しもはばかることなく、また妨げられることもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた」(使徒28・31)のです。神さまによって生み出された喜びは、世界に向かって広がり続けます。私たちはその担い手として召されました。
明日は主の日。今日は備えの日です。良い備えの一日を送りましょう。そうして明日に備えましょう。