静まりの時 2022年10月14日(金)
マタイ9・35~38
それからイエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やされた。また、群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。
そこでイエスは弟子たちに言われた。
「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」
マタイ9・35~38
主は、すべての町、村を巡り、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝えられました。そうしてあらゆる病気、わずらいを癒されました。病気とわずらいとの違いが何であるのかはわかりませんが、私たちが、心身の不調を覚える時、病名のはっきりしているものもあればそうでないものもありますので、そのような区別を記しているのかもしれません。とにかくすべての苦しみを癒してくださった、ということでしょう。
また群衆をあわれんでくださいました。これにあてはまる旧約聖書の言葉としては、はらわたが痛む、という言葉で、愛するとも訳される言葉でしょう。主は、群衆をご覧になり、また今日私たちをご覧になって、お腹が痛めながら寄り添っていてくださいます。
私たちは羊飼いのいない羊の群のように弱り果てて倒れているのです。その現実に気がつかないほどに、弱り果てて倒れているのです。傷ついている、という現実にまず気がつかなければ癒しに進むことができません。私たちの傷は、すべて主が癒してくださいます。
ここまで従ってきた弟子たちに向かってイエスさまは言われます。「収穫は多いが、働き手が少ない」。それは羊飼いのいない羊の群れのように弱り果てて倒れている人びとが多い、無数にいる、あるいは、すべての人がそうである、ということでしょう。それで、そのような人びとに向かって教え、御国の福音を宣べ伝え、癒やす「働き手」が必要である、もっと必要である、と言われました。そうして「収穫の主」ご自身に、働き手を送って下さるように祈りなさい、と言われたのです。
たくさんの人たちが福音を必要としている、だから弟子たちよ、時間を惜しんで、身を粉にして一所懸命働きなさい、と言われたのではなく、働き手を送って下さるように祈りなさい、と言われたのです。働き手が起こされるために様々な取り組みも大切ですが、何よりも祈ることを主は私たちに求めておられます。
「収穫は多い」と主は言われました。福音を必要としている人びとが多い、という意味であり、同時に、救われる人びとが多い、ということでしょう。主はそのような「視点」をお持ちになっておられます。私たちの家族を見て、地域社会を見て、職場や学び舎を見て、そこにやがて主を信じる人たちが多い、そこにはおびただしい数のキリスト者予備軍がいる、あなたが福音を語るのを、今か今かと待っている人たちがいる、と主は言われたのです。
教会では、信仰を求める人のことを求道者といいます。英語では「seeker」でしょうか、シークというと、グーグルで検索するというような感じですが、探し求める人、ということですね。仏教では同じ漢字で「ぐどうしゃ」と読むとか。真理を求める人のことです。すべての人の中に、この求道の心を発見しておられた、それが主イエスさまである、ということかもしれません。
聖書や信仰に何に興味も示さない人の中にも、あるいはキリスト教や教会に反対する人の中にも、真理を求めている心を発見する。それが主の視点であった、ということでしょう。そこにも主のあわれみの心があるのだと思います。
神さまは愛なのです。聖書の語る神さまは愛であり、人間をあわれんでくださるお方なのです。それを語り続けることが教会の使命です。そして教会をご覧になって、どんなに弱く欠けだらけであっても、その教会を用いて、ご自身の愛を語ろう、宣べ伝えようとなさっておられるのが主イエスさまです。